《元赤黒戦士の現在地・山橋貴史監督》天皇杯で敗れた札幌には優勝まで勝ち上がってほしい ヴェルスパ大分編
7月12日に行われた天皇杯3回戦で北海道コンサドーレ札幌が対戦したのはJFL・ヴェルスパ大分。結果は札幌が5-2で勝利したが、ヴェルスパは後半15分に挙げた得点で1点差に迫ると、猛攻を見せた後半の45分間では札幌の7本を上回る8本のシュートを放ってゴールを脅かし、JFLのチームながらその実力を印象づけた。そんなヴェルスパを指揮していたのは山橋貴史監督(51)だ。札幌市出身で、1997年から2年間札幌でプレーしたクラブのOBでもある。今回は大分の地でJリーグ昇格を目指して奮闘する札幌OBを紹介する。(以下、敬称略)
「僕も負けず嫌いなので、非常に悔しい」
札幌との熱闘を終えた山橋は、試合後の会見で「勝負事となったときには僕も負けず嫌いなので、非常に悔しいです」と口にした。そして、勝利した古巣について「コンサドーレは地元なので応援しているクラブ。結果が出てしまったので、ぜひ優勝するぐらいまで勝ち上がってほしい」とエールを送った。
山橋は現役引退後、日本サッカー協会のスタッフとして主に世代別代表チームを担当した。2009年にはアシスタントコーチとしてU-17W杯に挑む日本代表に帯同した。
21年にV大分監督就任
ヴェルスパの監督に就任したのは21年のことだった。コロナの影響で20年のJFLは半分(1回戦総当たり)のシーズンで行われ、そこで初優勝。「そのときに監督をやられていた須藤茂光さん(67、三笠市出身)とは、日本サッカー協会で一緒に長いこと仕事をしていたけど、都合があって監督を退かれることになり『引き継いでくれないか』とお話をいただいて。僕自身も大人のカテゴリーの現場で監督をやりたい気持ちがあったので、引き継がせてもらったところから始まりました」。
目指しているのは攻撃的なサッカーだ。「クラブとしての方針が『攻撃でしっかりボールを大事にしながら組み立てていく』スタイルで、僕自身もそういうサッカーを目指していきたいのがあったので、これまで3年間はその質をどんどん高めるところをやってきました。成果としては、少しずつですけど上がってきていると思っています」。
1位と勝ち点9差9位(7月22日時点)
就任初年度の21年はJFL3位。J3ライセンスが初めて交付された昨年は8位。そして今シーズンは16試合を消化した7月22日時点で勝ち点21の9位につけている。「最近はなかなか勝ち点3が取れてなくて、ちょっと苦しんでいる状況ではあるけど試合内容は悪くない。ただ、攻撃のゴール前であるとか、守備の自分たちのゴール前、サッカーで一番大事な両方のゴール前のところでプレーの質に課題がある」と、全28試合で行われるシーズンを折り返した時点での自チームを評する。
7月22日時点で、J3へ自動昇格する1位まで勝ち点9差、入れ替え戦を戦うこととなる2位まで勝ち点5差。9位とはいえ十分に射程圏内に入っている。残る後半戦に向けて「守備はゴール前でもっと強固に守り切るところを上げていくこと。あとはチャンスはかなり多くつくれているので、それを決めきるためにゴール前の質を高める。攻撃と守備両方のゴール前のプレーの質を高めることで勝ち点を積み上げられると思っているので、そこの質を上げていきたい」と、目標であるJリーグ昇格を目指す。
後半は、札幌移籍時秘話
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95年開幕戦でJデビュー、1分後Vゴール
札幌第一高出身で、卒業後の91年にはヤンマー(現セレッソ大阪)に加入。C大阪がJリーグに加盟した95年の広島との開幕戦で延長後半8分から途中出場してJデビューを果たすと、その1分後にいきなりVゴールをゲットした。C大阪のJ第1号得点者として名を刻み、この時代には「Vゴール男」と異名を付けられた。
ちょうどその頃、故郷の北海道ではプロチームを設立しようとする動きが出始めていた。当時は「本当なのかどうか定かじゃなくて。僕が高校生のときには北海道電力(現ノルブリッツ北海道)が北海道の中では一番強いチームって言われていて、そこを土台にJを目指すチームができるとうわさも聞いていた。ところが同じJFLで戦った経験のある東芝がホームタウンを札幌に移してJを目指す話になって。実際にコンサドーレという名前に変わって、アルシンド選手とか高卒ルーキーの吉原(宏太)選手が入ったりして。大阪のメディアでも少しずつそういう情報が伝わってきたので、本当にJリーグを目指すチームが地元北海道にできたんだなって」感じたそう。
96年コンサドーレ発足時、クラブから加入打診
96年、JFLの東芝サッカー部が札幌市へ移転することが決定。北海道初のプロスポーツチーム『コンサドーレ札幌』が誕生した。チーム発足にあたり、実は山橋にも加入の打診があったそうで「北海道の知り合いを通して(移籍の)話があったんです。ただ僕はまだそのとき契約がありましたし、せっかくC大阪でJFLからJリーグに上がったので、またJFLに戻るのは嫌だなと思って。それで1年間はC大阪でやらせてくださいと話をしたんです」と、このときはJリーグの舞台で戦い続けることを選択した。
翌97年、逆打診もチーム構想は完成済み
山橋は96年シーズンをもってC大阪を契約満了で退団。翌97年、札幌加入が決まるまでにはまだ紆余曲折があった。「いろいろチームを探していく中で、まず最初に札幌に『どうですか』って話をC大阪を通してしてもらったときに、もう札幌では来季の構想ができあがっていると話をされたんですよね。仕方ないから違うチームを探したけどなかなか無くて。それでもう一回、コンサドーレの役員の方と話をしてもらえる場所をつくってもらって、当時はまだC大阪時代の貯金もあったので『無給でも構わないので、サッカーだけとにかくやらせてほしい』と話をして自分を売り込んで。それで当時のコンサドーレの強化部長の方が緊急で役員会を開いてくれて、当時トレーニー(練習生)契約制度があったので、何とか拾ってもらった感じです」。
良い思い出のなかった厚別で札幌初ゴール
札幌の一員として戦った97年シーズン。6月1日の西濃運輸戦(3〇0)の前半33分に途中出場すると、Jリーグ初ゴールと同じく、わずか1分後に札幌時代唯一のゴールをダイビングヘッドで決めてみせた。「バルデスがパスしてくれて、ヘディングで詰めたような場面だったと思います。実はその前の5月25日に川崎と厚別で劇的な試合(4〇3)があって、そのときも後半途中から交代で入って、その試合の後、監督から『良かった』と言葉をかけてもらって。その次の西濃運輸戦では宏太がスタートで出ていたと思うけど、調子が良くなくてまた自分が交代で入ってたまたま点を決められた」。会場は地元・札幌の厚別公園競技場だった。「選手権も厚別で、(3年間全国未出場と)あんまり良い思い出がなかったので、コンサドーレに入って川崎に勝った試合とか、西濃運輸戦で点を決められたところで少し厚別が好きになりました。僕の中で思い出深い試合です」。
闘将フェルナンデスに「気持ちが弱い」といつも怒られ
この時代、札幌の指揮を執っていたのは、昨年亡くなられたウーゴ・フェルナンデス監督だ。「結構、僕は怒られていて。とにかく熱い男で、戦術がどうのというよりもまずは気持ちなんだってタイプの人で、そういう意味ではちょっと僕は物足りない感じに見えたと思う。『おまえは戦えていない』とか『気持ちが弱いから点数が取れないんだ』とか、いつも言われ続けていました。ただ、川崎のときには『良かった』って褒められたり、点を入れたときに褒められたりしてうれしかった。その何節か後、東京ガス(現FC東京)戦(0●0、PK戦5-6)でPK戦になってしまって、僕が外して負けたときにこれ絶対に言われるなと思ったんですけど、何も言わずにハグしてくれたのは思い出です」と懐かしんだ。
J2降格後、札幌を退団
札幌は97年にJFLで優勝しJリーグ昇格。山橋も札幌に残留し2年ぶりにJリーグでの戦いに臨んだが、リーグ戦は出場無し。チームもJ1参入決定戦で敗れ、翌年からJ2で戦うことを余儀なくされた。「2部に落ちるようなチーム力ではなかったと思うんですよ。ただ、2年間のポイントで決めるっていうルールがあって、コンサドーレはその1年のポイントしか加算されなかったので、厳しい条件の中で戦わざるを得なくて(※)。最後、J2降格が決まった試合に僕が出場できなかった、メンバーに入れなかったことでチームに対する恩返しというか、完全燃焼してコンサドーレを離れることができなかったのはすごく残念に思っています」。このシーズン限りで札幌を退団した。
野々村社長になってチームが変わった「本当に優勝を狙える」
現在の札幌の姿はどのように映っているのだろうか。「やっぱり僕は野々村チェアマンが社長になったところから、チームが変わったんじゃないかなとみていました。それまでは亡くなられた石水勲さんを中心に、地元のファン、サポーターの熱意でチームは活動していたと思うけど、予算的なものもあって上位進出とかJ1に定着するところまではいかず、何年かに一回J1に上がるけどまたすぐ落ちてしまうことを繰り返して。それぐらいの経営規模のクラブだったのが、野々村社長になって小野伸二選手や稲本潤一選手を呼んで、コンサドーレの認知度を上げてから徐々に変わってきて。今はペトロヴィッチ監督になってずっとJ1に定着している。すごく戦略的にクラブが大きくなってきていて、このまま成長を続けていけたら本当に優勝を狙えるチームになっていくし、鹿島や浦和のようなビッグクラブになる可能性もある。だからクラブの未来は明るいと思います」。
山橋たち97年のメンバーがJFL優勝を果たしたことでJリーグに加盟した札幌が、初めてその舞台で戦った98年シーズンから今年でちょうど25年。決して平坦な道のりではなかったが、そういった時代も含めて今の札幌がある。クラブ史のJリーグ最初の1ページを記したOBの一人。大分での挑戦は続く。
※Jリーグが99年から2部制を導入するにあたり、97年と98年の2シーズンの順位に応じたポイントの合計で新たな順位を決め、下位5チームがJ1参入決定戦に回るルールがあった。さらに横浜Mと横浜Fの合併に伴い、出場するチームは4枠に減少した。札幌は98年の年間順位は18チーム中14位だったが、97年の順位ポイントが0だったため、2年合計で16位となり、参入決定戦に回った。
【札幌サポーターへのメッセージ】
これからもコンサドーレのことを地元のクラブとして応援していきたいと思っていますし、将来的に監督ができれば、そんな光栄なことはないなとも思っています。いつまでも応援していきたいと思っているので、僕のことも応援してもらえたらうれしいです。
■プロフィール 山橋 貴史(やまはし・たかし) 1972年5月31日生まれ、札幌市出身。札幌第一高から91年にヤンマー(現C大阪)に入部。97年に当時JFLの札幌へ移籍し、同年JFL優勝、Jリーグ昇格に貢献した。98年シーズン終了後に札幌を退団し、夕張ベアフット(当時)でプレー。引退後は日本サッカー協会のスタッフとなり、2009年のU-17W杯に出場した日本代表でアシスタントコーチを務めた。21年にヴェルスパ大分の監督に就任。現役時代はFWやMFとしてプレーし、札幌では2年間でリーグ戦19試合出場1得点。Jリーグ通算では52試合出場3得点。