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2021/10/25 10:18

【アーカイブ・2020年連載企画】逆境を乗り越えよう④  ノルディック複合・阿部雅司 「つらいときこそ笑顔で」

 特別企画「逆境を乗り越えよう」の4回目は1994年リレハンメル冬季五輪でノルディック複合団体金メダルに輝いた阿部雅司さん(54、札幌オリンピックミュージアム名誉館長)。92年のアルベールビル冬季五輪は日本代表のエース格として帯同したが、レース前日に補欠へ降格。自身不在のチームが複合初の金メダルを獲得。直後は引退も考えた。しかし、思い留まらせ、2年後に有終の美を飾った裏には家族の存在があった。(聞き手・西川薫)
(本連載企画は2020年に掲載されたものです)

94年リレハンメルでつかんだ金メダル

 悲願の金メダルを首から下げ、表彰台から見た景色は特別だった。
 「満月が浮かんでいてね。高校1年の時に母をがんで亡くして、グレて停学になったこともあった。苦労をかけた母の顔が浮かんできた。最後に飛ばしてくれて、走らせてくれたのは、お母さんだったのかな」

92年アルベールビルは試合前日にメンバー落選

 前回大会の92年はエース格だったのにかかわらず、試合前日にメンバーから外れた
 「当時はV字ジャンプの出始めだけど、守りに入って挑戦しなかった。(補欠となった)試合当日は、スペアの板とストックを持って、森の中のコースで待機していました。顔には出していなかったけど、心の中は晴れなかった」

日本初の快挙も「辞めてやる」

 日本が初の快挙を達成した瞬間も、まだゴール地点に向かって歩く森の中。歓喜の輪に加わることはできなかった。
 「彼らが銀とか銅だったら『ほら見れ、俺を出さないから』という逃げ道もあったけど、結果的にメンバー選考は正しかった。ゴールに着いた時はメダリストとそれ以外の人が完璧に別の世界の人になっていた。国旗掲揚の瞬間は絶対に見たくなくて、地面を見ながら足で雪山を作ったりして、もう辞めてやるとヤケになっていた」

妻の後押しで2年後へ再びチャレンジ

 引退を思い留まらせたのが、日本で待つ妻・智佐子さんの妊娠だった。さらに次の五輪が4年後ではなく、2年後だったことも後押しした。
 「このまま辞めちゃったら、自分が飛んでいる姿、走っている姿を子供に見せられない。嫁さんに『金メダルの3人に勝てないかもしれないけど、もう1回チャレンジしていいかい?』と」

人生のテーマとなった妻との約束

 今月(20年4月)7日に智佐子さんとは結婚30周年を迎えた。「つらいときこそ笑顔で」。リレハンメル五輪の時に二人で交わした約束だ。この言葉は今でも人生のテーマとなり、自身の講演会でも必ず話するようにしている。
 「(アルベールビル)五輪はいい思い出がなかった。だから(リレハンメル五輪は)スタート前に『最後くらい笑って走ってくるから。見てね』と約束したんです。そしたら選手生活で一番いい走りができた。自分でも信じられない力が出たんです」

コロナ禍の今こそ「前向きな明るい言葉を」

 新型コロナの影響で東京五輪が1年延期され、多くのアスリートが苦難と向き合っている。
 「年長の方は苦しんているはず。頑張ってほしい。今は大変だけど、こういう時こそ、とにかく前向きな明るい言葉を。マイナスな発言をすると、マイナスな行動につながる。プラスの発言を心掛け、笑顔で乗り切りましょう」
(2020年4月12日掲載)

■競技引退後の現在 

  阿部さんは14年代表コーチ引退後は東京美装の社業に専念していたが、16年に名寄市から嘱託職員のオファーが届いた。同氏は冬季スポーツの拠点となることを目指し、その旗振り役として白羽の矢が立った。
 契約は1年更新。ここでも背中を押してくれたのは妻の智佐子さんだった。「スキーのコーチを辞めてから笑わなくなったよ。名寄の仕事はあなたしかできないんじゃないの。ダメだったら2人で働けば何とかなるんじゃない」。
 退社を決意した阿部さんは、名寄でジュニア世代の育成やスポーツイベントなど精力的に働き、今では”第3の故郷”と言えるほど愛着が湧いている。
 今年(20年)4月からは4年ぶりに札幌に戻り、五輪ミュージアム内のオリパラサロン常駐職員となった。2030年札幌五輪実現へ、機運を高めるのが今の使命だ。「まずは東京五輪のマラソン・競歩。そこを大成功に終わらせるのが一番」。選手、コーチ、今度は縁の下から五輪の盛り上げに力を尽くしていく。
 

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