《大海の部屋》vol.07 テーマは伊藤大海のつくり方! 26歳の誕生日を契機に人生を振り返った
道産子右腕の25年間を凝縮 秘蔵写真も随所に掲載!
日本ハム・伊藤大海投手(26)の連載手記「大海の部屋」vol.7は、『誕生日スペシャル』と題してお届け。プロ野球選手・伊藤大海は、いかにして誕生したのか? 道南の港町・鹿部で過ごした幼少期を中心に25年間の歩みを振り返った。
意外にも経験のないバースデー登板
8月31日に26歳の誕生日を迎えました。これまでバースデー登板の記憶はないなあ。負けたら嫌なので、したくないですけどね(笑)。小さい頃、夏生まれは家族で僕だけだったので、ちょっと盛大なお祝いだった気がします。伊藤家では、誕生日の人の好きなものを食べるのが恒例。僕は「何食べる?」って聞かれるのが苦手なので、「何でもいい」という感じでしたけど(笑)。
思い出深いプレゼント 父から贈られたグローブとバット
プレゼントは、レゴブロックとかもらっていたかな。野球を始める前には、父さんからビニール製のグローブとバットのセットをもらったこともありました。それを使って、家の前で父さんと父さんの弟とよく遊んでいました。グローブは外に置いておいたら、きつねに食べられちゃいましたが(笑)。
バットは結構、使いました。もしかしたら、父さんに野球をやるよう仕向けられたのかもしれない。もともとはインドア派で、ストーブの前でレゴブロックをやるのが好きでした。そして、お姉ちゃん子。雪遊びが好きだった姉と、かまくらを作ったり、小さい頃はずっと付いて歩いていたな。
野球人生の始まりは小学2年
小2の時、自分から「やりたい」と言って野球を始めました。そこから、野球選手になりたいとずっと思い続けてきました。父は、たこつぼ漁師ですが、一回船に乗せてもらって、船酔いしてすぐ帰してもらったのがトラウマで。
漁の手伝いは、あまりしなかったかな。夏休み中の昆布干しと、春休み中にたこ箱を入れる時期くらい。終わったら食べられるアイスが楽しみでした。昆布はまとめると重いので、当時の力だったら大変だったけど、家族みんなでやらないと終わらない。合間に野球の練習に行って、夏休みはあまり楽しいものではなかったです。
盛田幸妃さんとの運命的な出会い プロをより意識
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小3か小4で参加した(同郷でプロ野球選手の)盛田(幸妃)さんの野球教室は、今でも覚えています。体もデカくて、かっこ良かった。その時に教えてもらった基本的なことは、今でも大事にしています。(投球時の)つま先の動きとかシンプルなこと。身近に盛田さんがいたから、プロが遠いものではないと勝手に思えました。
ファイターズジュニア落選で奮起 練習の虫に
だからこそ、小6の時、ファイターズジュニアのセレクションを受けて落選し、ショックだった。僕を落としたのは…、のちの担当スカウト白井(康勝)さんです(笑)。それまでは、周りとのレベルの差をあまり感じていなかった。初めて、もっとやらないと駄目だと思い、いろんなことをやり始めました。鹿部の町を走ったり、素振りもしました。何百回振ったとかではないけど、誰かと勝負していることを妄想しながら、1日何打席と決めて振りました。
覚悟の丸刈りで父を説得 函館東リトルシニア入部
中学進学時には、父に函館東リトルシニアへの入部を反対されたんです。大嫌いな坊主にするくらい誠意を見せたら入れてくれるかなと思って、丸刈りに(笑)。自分でランニングしたり練習する姿を見て、父さんも「いいよ」と言ってくれたのだと思います。
シニアでは、ランニングで速い人がたたえられる。その時、(米大リーグ・ツインズの)前田健太さんが、学生時代にランニングで1位になって目立つようにしていたというのを本で読みました。「これだ!」と思って、頑張っていたな。
駒大苫小牧高、駒大、苫駒大で着実にレベルアップ
もちろん最初は、高校を卒業してすぐプロに行きたいと思っていました。転機となったのは、駒大苫小牧高時代の2年春に出たセンバツ。周囲と体の大きさとかを比べて、絶対無理だ。大学に行きたいな、と意識するようになりました。
駒大を(1年で)辞めた時も、さすがにプロ野球選手にはなれないなって思いましたね。前例がなかったので、よっぽどの成績を残さないと駄目。苫駒大(現北洋大)に再入学後は、その危機感が気持ちを奮い立たせてくれました。
気付けばプロ3年目 心身のさらなる成長を期す
プロになるという夢をかなえて今年で3年目。チームでは上の世代となり、みんな僕のこと3年目だと完全に忘れている気がする(笑)。20代を折り返すので、大人になったなと周りに思ってもらえるようにしたい。私生活もですが、断捨離はちょっと無理かな。球場のロッカーは、相変わらずモノであふれかえっています(笑)。