【アーカイブ・2020年連載企画】逆境を乗り越えよう⑧ スキージャンプ・原田 視点を変えて新しいものを発見しよう
特別企画「逆境を乗り越えよう」は、ノルディックスキージャンプで1998年長野五輪団体金メダルに輝いた原田雅彦(51、雪印メグミルクスキー部監督)の2回目。最後の五輪となった2006年トリノ五輪ではまさかの失格。波乱のスキー人生を送った原田は後進の育成に力を注いでいる。(聞き手・西川薫)
(本連載企画は2020年に掲載されたものです)
200グラムに泣いたラスト五輪
原田が自身、最後の五輪となった2006年トリノ五輪大会。有終の美を飾るはずが、ノーマルヒル(NH)予選で痛恨の失格となった。飛躍後の計測で規定より体重が200グラム少なかった。98年の長野五輪以降、日本人に不利といわれたルール変更。まさに翻弄された。
「体重測定なんてわれわれの頃にはなかった。現地に入って、ものすごく調子が良かった。最後にまたいけるんじゃないかと。でも、世界のジャンパーはみんな1メートル、50センチでも遠くへ飛びたいという思いが強い。そんなことまでやるか、って。ジャンプの技術はどんどん進んでいて、それに対応できなかった」
「ジャンプ界に不安しか与えていない」
トリノ五輪後に引退を決意。37歳で現役生活にピリオドを打った。
「悔いはないですよ。波瀾(はらん)万丈のスキー生活だったなと、その時に思いましたね。もっと遠くへという思いをやりきれたのですから。でも、とにかく私はジャンプ界に不安しか与えていない、と。原田さんみたいなことが自分にもなったらと、団体戦も皆嫌がるんです。最後のジャンパーになりたくないって。私が大々的に五輪で失格になって、そんな思いはしたくないと」
今の夢は札幌五輪でのメダリスト育成
引退後、コーチ、監督としてチームを率いてきた。今の目標は2030年開催を目指している「札幌五輪」でのメダリスト育成だ。
「長野五輪を超えるような歴史を早くつくってもらうこと。最高の舞台が札幌にやってきそう。その時にぜひとも達成してもらいたい。自分らしく飛べる選手が一番強い。選手には遠回りしないでほしい」
限られた環境でも「できることはある」
新型コロナウイルス感染拡大の影響で、世界中が不安に包まれ、先行きが不透明な毎日が続く。家にこもり、外に出ることも制限されるが、それでも限られた環境の中で「できることはある」とメッセージを送る。
「たとえば、家で自粛している中でも、絵を描いたら『俺、絵うまいな』なんてなるかもしれないし。視点を変えてみれば、新しい何かを発見できるかもしれない。いろんなことにチャレンジしてほしいな。スポーツだったら、スランプ脱出のきっかけは向こうから来る時がある。そんな小さな切っ掛けを見逃すことなく、つかまえて実行したらいい。私の場合は原点に戻って道が開けた」
■原田雅彦(はらだ・まさひこ) 1968年(昭和43年)5月9日、上川町生まれ。上川中1、2年時に全国中学連覇。東海大四高(現東海大札幌高)3年でインターハイ優勝。五輪は初出場の1992年冬季アルベールビルから5大会連続出場。2006年に引退。雪印メグミルクスキー部コーチを経て、14年に同部監督就任。15年から全日本スキー連盟理事、21年6月から日本オリンピック委員会(JOC)理事。22年北京五輪では日本選手団の総監督を務める。173センチ、61キロ。家族は妻と長女、長男。
(2020年4月22日掲載)