《荒木大輔のズバリ解投》特別編 今、語る。社会現象にまでなった「大ちゃんフィーバー」
絶大な人気を誇った甲子園のアイドル
今から43年前の1980年。当時、高校1年生だった荒木さんは初出場した夏の甲子園で快投に次ぐ快投を披露し、早稲田実業を準優勝に導いた。その後も聖地の土を踏み続け、トータル5季連続で甲子園に出場した。実に17試合に登板し、12勝5敗。防御率は1・72を記録。端正な顔立ちも相まって全国に「大ちゃんフィーバー」を巻き起こし、社会現象にまでなった。プロ入りしてからも絶大な人気を誇った甲子園のアイドル。本人が今、現役時代を振り返った。
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2年生エースの負傷で巡ってきた登板機会
あらゆるタイミングが重なってのことでした。甲子園につながる東東京大会の開幕直前、2年生エースがけがをしてしまった。私はまだ1年生。先輩たちが何とか、もり立てようとしてくれた結果、チームは一つになった。それで甲子園切符を手にすることができた。
東東京大会を勝ち上がるごとに周囲は騒がしくなってきたんですが、やっぱり甲子園。1回戦で北陽(大阪)に6―0。予選のチーム打率がトップだった優勝候補を(1安打に抑え)完封した。しかも、投げていたのは1年生。一気に注目されることになった。
たった数時間で世界が一変 横付けできなかったチームバス
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今でもハッキリ覚えている。宿舎を出る時には見送りの方が5~6人だった。従業員の方々やアルバイトのお姉さんたち。それが試合を終えて帰ってきた時には数え切れないほどの人だかり。チームバスが宿舎に横付けできなかった。
たった数時間で、すべてが変わった。それからですね。熱烈に応援していただくようになったのは。球場に出入りする際には警備員が道をつくってくれた。正面にフェイクの〝通路〟をつくってもらい、外野の出入り口から帰ったこともあった。外出時には常に5~6人の同級生が〝壁〟になってくれた。ファンの声援は力になるもの。ですが、当時はまだ10代の高校生。うれしさよりも、常に人に見られていることへの恐怖心が先立った。
ファンレターや贈り物は段ボール箱で数十個
ファンレターやプレゼントもたくさんいただいた。ほとんどが学校に届くんですが、その都度、渡されるわけではない。卒業の時、一気に実家に届けられる。でも3年分でしょ。段ボール箱で数十個。置き場に困るし、目を通すのも一苦労でした。
プロ入り後も、ファンの皆さんの声援に背を押された。特にヤクルトの本拠地・神宮球場はグラウンドと客席が近い。日本ハム同様、球団のファンサービスに対する意識も高く、より身近に感じることができた。ただ、負けた時はつらい。ストレートな声がハッキリと耳に届く(笑)
「荒木トンネル」はフィーバーと無関係!?
プロ入りした際に話題となった「荒木トンネル」(球場とクラブハウスを結ぶ地下通路)なんですが、今も私のために造られたと思っている方も多いはず。ですが、ドラフトから1カ月ほどしてクラブハウスに足を運ぶ機会があった。その時にはもうできていた。計画から完成まで、たった1カ月なんて難しいでしょう。真偽は定かではないが、そういった事象も含めて、フィーバーだったのかなと思っています。
松坂大輔にはより厳しく 責任感を抱かせてくれるファンの存在
指導者となってからは松坂大輔に一番、厳しく接した。自分が名前の由来と聞いた。2004年に西武の投手コーチになり、時間や身だしなみ、あらゆることに口を出した。彼の姿を子どもたちも見ているわけだから。松坂は人間的にも素晴らしく成長してくれた。
ファンとは。あらためて考える。ありがたくもあり、強い責任感を抱かせてくれる存在でもある。