《荒木大輔のズバリ解投》特別編 「大ちゃんフィーバー」以前にリトルリーグ世界一 原点の少年野球を語る
常に第一線で活躍 子どもたちや若手プロ選手にエール
早稲田実業時代に甲子園を沸かせ、全国に「大ちゃんフィーバー」を巻き起こした荒木さん。小学6年時にはリトルリーグの大会で日本一に輝き、ワールドシリーズ(世界大会)でも優勝を成し遂げている。プロ入り後はヤクルトで2度、開幕投手を務め、1987年には2桁10勝もマークした。現役引退後は日本ハムで投手コーチを務めるなど指導者としての経験も豊富。野球人生において常に第一線を走り続けてきた。原点とも言える少年野球時代を振り返りながら、子どもたちやプロの世界でもがき苦しむ若手にエールを送った。
※荒木大輔さんが高校野球をテーマに語り尽くす『荒木大輔チャンネル』はコチラ
4つ上の兄を追って野球の道へ
私が野球を始めたのは小学2年の時。8歳でした。兄2人が調布リトルでプレーしていたこともあり、自然と私も入団した。当時は何をするにも4つ上の次男の背中を追った。「自分も同じユニホームを着てプレーしたい」という一心だった。
まずは野球の楽しさを 褒めることも大切
生まれた時の体重は4000グラム弱。体格に恵まれていた。野球や遊びの相手は兄と、その友人たち。同級生に比べ、上達するための環境が整っていた。何よりプレー自体が楽しかった。やはり、楽しくなければ続かない。
だから、特に少年野球の指導者には伝えたい。勝敗や技術指導は大切だが、まずは野球の楽しさを教えてあげてほしい。頑張った時には思い切り、褒めてもらいたい。
人生初打席で三塁打を放った伊東勤氏も賛同
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最近、伊東勤さん(西武黄金期に正捕手として活躍し、西武やロッテで監督を務めた)と話す機会があった。伊東さんは少年時代、初めて出た試合で、いきなり三塁打を打ったらしい。褒められたことがうれしくて野球を続けられたとのこと。何事もスタートは肝心。小さな子どもなら、なおさらでしょう。
自分を見失うな 成長スピード、特長は人それぞれ
焦る必要もない。成長スピードも人それぞれ。タイプだって違う。誰だって輝ける場所はあるはずだ。それはプロも同じ。皆、評価されてドラフトで指名を受けた。自分の特長、強みを持って入ってきている。それを見失ってほしくはない。周囲と自分を比べすぎ、力を発揮できずにユニホームを脱いでいった選手は少なくない。そういう選手を何人も見てきた。とにかく、悔いだけは残してほしくない。
消極的だったプロ入り 加藤初氏の投球に自信喪失
私もヤクルトに指名された時、自信がなく、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。同学年に畠山準(徳島・池田高から南海入り)や斎藤雅樹(埼玉・川口高から巨人入り)がいた。甲子園で実際に見たり、練習試合で対戦したり。こんな選手に勝てるわけないと思っていた。
それにプロ入り前、多摩川グラウンドで(当時巨人に在籍していた)加藤初さんのピッチングを見た。ボールが見えなかった。それほど速かった。自分は剛速球で勝負するタイプではないのに、勝手に自らを追い込んでしまった。子どもたちもそう。野球には、さまざまな役割がある。自分を生かすポジションは必ずある。
日本ハムで2軍監督 将来を見据えた指導を徹底
そうした経験もあり、日本ハムでの2軍監督時代、よく若い選手には言ったものだ。「今が一番大事なのではない。3年後、5年後にどういう選手、どういう人間になっているか。たとえ今、満足にできなくても焦る必要はない」と。もちろんプロなので、最低限必要なレベルはある。
万波のブレークに納得 段階を踏んで成長
日本ハムは幸いにして、若手に対して「見守る」という空気を持ち合わせている。1、2年目の万波にしてもそうだった。タイミングを取るのに苦労していた。評論家によっては、いろいろ指摘してくる方々もいた。それでも当時のコーチ陣は、細かく過度に指導することはなかった。そのかいもあって段階を踏んで成長してきた。今季のブレークにもつながったと感じる。
野球での出会いは一生もの チームメートは財産
あとは、特に子どもたちに伝えたい。野球で出会った仲間は一生の友になる。私もいまだにリトル時代のチームメートと、たまに会っては言葉を交わす。それはかけがえのない財産だ。野球に限らず、何事にも全力で、楽しむことを忘れず、ちょっぴり負けん気の強さも持ちながら、頑張ってもらいたい。