F吉田輝星の素顔(2019~2023)~担当記者が振り返る~㊤ ネット上の心ない声に対して…
惜別緊急企画 5年間〝輝星番〟を務めた記者が回想
今季まで日本ハムに在籍した吉田輝星投手(22)が来季からオリックスのユニホームを着る。明るく、少しやんちゃで、野球にはとことん真面目。〝人たらし〟な性格はチームメート、スタッフ、ファン、報道陣、誰からも愛された。入団1年目から「輝星担当」を務め、5年間にわたって取材を続けてきた記者が未公開エピソードを交えながら、素顔を振り返る。3回連載の㊤は、初対面から密着し続けて見えた人柄に迫る。
まさに青天の霹靂 遊園地で受けた衝撃メッセージ
娘と遊園地で遊んでいる時だった。休日は基本、仕事の連絡は来ないが、この日はやたらとスマホが鳴る。ティーカップを乗り終え、目を回しながら、ふと画面を見ると、同僚からの衝撃的なメッセージが飛び込んできた。「吉田輝星、オリックスにトレードだって」。娘にせかされ、次はメリーゴーラウンドに乗りながら、混乱する頭を必死に整理した。
スターを感じた初取材 堂々たる17歳
まさか5年目のオフに、惜別原稿を書くことになるとは思わなかった。初めて会ったのは、2018年11月15日。球団と仮契約を結ぶ場となった秋田の「ポートタワー・セリオン」まで取材に行くと、見たことのない数の報道陣が集結していた。質問するのも緊張するほどだったが、当時まだ17歳の吉田は、さも当然とばかりに、大人たちの中で堂々と受け答えをしていた。これから担当する選手が、いかに「スター」かを思い知らされた一日を、今でも鮮明に覚えている。
ドラ1右腕を追い続ける日々 紙面は「輝星待ち」
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その後もストーカーのように、吉田の後ろを付いて回った。鎌ケ谷での入寮、新人合同自主トレに始まり、沖縄・国頭でスタートした初の春季キャンプ、そして6月には、札幌ドームでプロ初勝利も目撃した。何の変哲もない普段の練習でも、会社は新聞のスペースを大きく空けて待っている。まだ2年目だった記者にとって、最初はプレッシャーだった。それでも取材を重ねているうちに、いつの間にか不安は消えていた。
唯一無二の言葉たち 字になる男に助けられた
なぜか―。吉田がいつも、ありきたりな模範解答から外れ、自分の言葉で「見出し」をつくってくれたからだ。何度ぶら下がっても、「僕、取材されるのは好きなんですよ」と嫌がる素振りを見せず、野球のことからプラべートなことまで、ざっくばらんに話してくれた。「話しすぎだって怒られるんですけど、ついしゃべっちゃうんです」。そのサービス精神に、新米記者は何度も助けられた。
世に出した1年目ラスト登板でのエピソード
記事に対する反響の大きさも桁違いだった。北海道や地元の秋田だけでなく、全国の野球ファンから注目されていた。だからこそ一度、怖くなったことがある。プロ1年目の1軍ラスト登板となった19年9月22日のロッテ戦(ZOZOマリン)。先発した吉田は二回途中でノックアウトされ、チームのポストシーズン進出が消滅した。その日の夜、寮に戻ってもなかなか寝付けなかった右腕が、「悔しさのあまり、右手で部屋の壁を殴った」という話を、原稿にした際のことだ。
予想以上の反響 痛烈批判も数多く
もちろん、けがはしていない。ある程度の批判も、想定はしていた。屈辱を味わった夜に、自らの未熟さに打ちのめされながらも、悔しさをバネに前に進もうとしている姿を、読者に伝えたかった。しかし、届いた声には想定以上に、辛辣(しんらつ)なものが混ざっていた。「大事な右手で壁を殴るなんてありえない」「バカすぎる」「投手失格」「野球やめろ」。人気の分だけ、ネガティブな反応も通常より大きくなってしまう。自分が書いた原稿のせいで、まだ18歳だった吉田に心ない暴言を浴びせてしまった責任を痛感した。
救われた一言 「気にしないで、いっぱい原稿を書いてください」
直接、聞いたことがある。ネット上の声をどう思っているのか―。「本当に、何とも思っていないですよ。その分、応援してくれている人がいっぱいいることも分かっています。これからも気にしないで、いっぱい原稿を書いてください。何でも協力しますよ」。本心は本人にしか分からない。それでも無邪気な笑顔に、心を軽くしてもらった。
気軽に雑談 カメラを向ければ変顔
「せっかく担当していただいているのに、なかなか勝てなくてすみません。活躍できなくてすみません」と謝られたこともある。顔を見れば雑談に応じてくれ、カメラを構えれば変顔を見せてくれる。記者として、一人の選手に肩入れするのは良くないのかもしれないが、ルーキーイヤーが終わる頃にはすっかり、その素直で優しい人柄に魅了されていた。
※次回㊥では、取材で集めたエピソードの中から、特に印象に残っているものを紹介します。