《元赤黒戦士の現在地・上里一将中編》宮古島から2500キロ離れた札幌への加入秘話 背負い続けた20番へのこだわりとは
かつて北海道コンサドーレ札幌でプレーしてきた名選手たちが現在、そして札幌在籍時代について語る『元赤黒戦士の現在地』。前回に引き続いて登場のFC琉球アカデミーロールモデルコーチの上里一将さん(37)に、合計11年にわたってプレーした札幌での日々を振り返ってもらった。中編は札幌加入時の逸話や若手時代、そして代名詞とも言える背番号20へのこだわりなどについてお届けする。(以下、敬称略)
宮古島から札幌へ「嘘だと思った」
宮古島で生まれ育った上里に、直線距離で約2500キロも離れている札幌を本拠地にするサッカーチームから練習参加の誘いが来たのは2003年のことだった。その当時を振り返り「単純に嘘だと思ってました。宮古島からプロ選手が出たことも無かったし、どういった感じでチームに呼ばれるかもわからなかったし。名刺をもらったところで、あんまり信じてなかったですね。本当かなって」。現在クラブの代表取締役GMを務める三上大勝(52)が、強化部時代に九州へ高校の試合を視察に行った際に、たまたま目当ての高校の対戦相手だった宮古高校でプレーしていた上里。その偶然の出会いがプロサッカー選手への道を拓くきっかけとなった。
同年9月に練習参加のため生まれて初めて北の大地へ渡った。ここでさらにプロ入りへの〝偶然〟が舞い降りることとなる。「めっちゃ寒くて体調崩して、練習参加の期間がちょっとだけ延びたんですよ。それで2試合大学生と試合することができて、得点も取れて。(練習参加からの)帰りの車で、三上さんから直接『獲りたい』という話をされました」。
宮古島初のプロサッカー選手「プレッシャーもあった」
獲得の意向を「うれしかったですね」と喜んだ一方で、「でも頑張らないといけないなって。自分が宮古島からプロサッカー選手になるスタートで、それを変な形で名も知られないままいなくなってしまったら次が続かないと思ったので、長くやりたいと思っていましたし、プレッシャーもありました」と、故郷を背負う強い覚悟を胸に刻んでプロの世界の門を叩いた。
ルーキー年で天皇杯8強に貢献
上里が加入した04年、札幌は経営難から従来の大型補強路線を改め育成型クラブへ方針転換。上里や現在フロントスタッフとしてチームに携わっている鈴木智樹(38)ら高卒、大卒計8人のルーキーと共にリスタートを切ったが、外国籍選手不在、結果より若手選手の育成を重視したチームは低迷し、5勝15分24敗の成績で当時12チームで行われたJ2の最下位に沈んだ。その中で上里はリーグ戦17試合に出場。室蘭で行われた天皇杯4回戦の市原(当時)戦ではプロ初ゴールとなる同点弾を決めてジャイアントキリングのきっかけをつくり出し、当時のクラブ最高成績となるベスト8入りに貢献した。「もう必死でしたよ。あの1年でクビにならないように、常に100%でやらないといけないなという感じでした。練習から必死にやっていたら、もうあっという間に過ぎて終わったなという感じでしたね」とルーキーイヤーを振り返る。
背番号を19に変更した翌05年は完全にチームの主力選手に定着。リーグ戦初ゴールも記録し、J1昇格争いにも絡んだチームをけん引したが、夏場に左膝前十字靱帯を損傷してしまい戦線離脱を余儀なくされた。
加入時は和波が20番、06年にゲット
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そして06年、上里は背番号20に変更。以後FC東京に在籍した11年シーズン(32番)を除き、引退まで一貫して代名詞となる20番を背負い続けた。「中学生の時に好きだったレコバ(元ウルグアイ代表FW)とデコ(元ポルトガル代表MF)がどちらも20番を付けていて。代表でもクラブチームでもその背番号を付け続けるのが格好いいなと思って」と理由を明かした。「本当は(加入時から)20にしたかったんですけど、和波さん(MF和波智広)が付けていたのでダメでした。FC東京のときも20が良かったんですけど、ゴンちゃん(GK権田修一)が付けていて。『俺20がいい』ってゴンちゃんとも話して、『来年残るならカズに譲ってもいいよ』みたいな感じだったんですけど、徳島に行ったので。その徳島でも20番を付けました」。
練習試合でも20番のウェア用意
上里の20番へのこだわりは引退後も続いており、現在アマチュア選手として在籍するFCセリオーレでも背番号は20。そして昨年、今年と参加した札幌の練習試合でも上里に20番のトレーニングウェアが与えられた。「本当にその辺りは札幌はすばらしいですよね。それだけ俺が20番にこだわっていたのを知っていて、ちゃんと用意してくれて。そういうクラブに育ててもらって本当に良かったなと思いますね」。
07年J2優勝も出場試合は減少
07年に札幌は三浦俊也監督(60)の指揮の下、J2で優勝して02年以来となるJ1復帰を果たす。04年にほぼゼロからの再スタートを切ったチームはついに昇格をつかみ取るまでに成長を見せたが、その一方でこの年の上里はリーグ戦7試合の出場にとどまり、苦しいシーズンを過ごした。「(04年からの)積み上げもありましたけど、それが(結果に)リンクしているかと言われるとちょっと難しいところもあって、バタバタと進んだなって印象はありますね。どっちをやったらいいのか、若かったし迷いもありましたね。でも最終的に(自分の)人生を周りの人が責任持てるわけじゃないから、自分らしくプレーして、それがダメだったらダメ、良かったら良いという感じで、後悔ないように選手生命を過ごそうと思った時期でした」。
次回は初の大役に抜擢
J1に戦いの舞台を移した08年の札幌だったが、最下位に沈んで1年で再び降格の憂き目に遭ってしまう。そしてJ2リーグ戦全51試合の長丁場の戦いに臨む09年、上里に大役が命ぜられることとなった。
■プロフィール 上里 一将(うえさと・かずまさ) 1986年3月13日生まれ、沖縄県出身。宮古高から2004年に当時J2の札幌に加入。正確かつ強力な左足のキックを武器に、ルーキーイヤーからリーグ戦17試合に出場するなど主力選手として長く札幌に貢献し、09年にはキャプテンも務めた。11年にFC東京、12年に徳島へ期限付き移籍を経験。16年限りで札幌を契約満了となり、以降は熊本、琉球でプレーし、22年シーズン限りで現役を引退した。登録ポジションはMFで、主にボランチとしてプレーしたほか、トップ下や左サイドバックでの出場も経験。札幌には合計11シーズン在籍し、リーグ戦258試合出場、19得点。J1・J2通算488試合出場31得点。