コンサドーレ
2024/02/19 17:30

《元赤黒戦士の現在地・上里一将中編》宮古島から2500キロ離れた札幌への加入秘話 背負い続けた20番へのこだわりとは

2004年10月2日、対京都戦で先発フル出場した上里(右)がボールを奪う

 かつて北海道コンサドーレ札幌でプレーしてきた名選手たちが現在、そして札幌在籍時代について語る『元赤黒戦士の現在地』。前回に引き続いて登場のFC琉球アカデミーロールモデルコーチの上里一将さん(37)に、合計11年にわたってプレーした札幌での日々を振り返ってもらった。中編は札幌加入時の逸話や若手時代、そして代名詞とも言える背番号20へのこだわりなどについてお届けする。(以下、敬称略)

宮古島から札幌へ「嘘だと思った」

 宮古島で生まれ育った上里に、直線距離で約2500キロも離れている札幌を本拠地にするサッカーチームから練習参加の誘いが来たのは2003年のことだった。その当時を振り返り「単純に嘘だと思ってました。宮古島からプロ選手が出たことも無かったし、どういった感じでチームに呼ばれるかもわからなかったし。名刺をもらったところで、あんまり信じてなかったですね。本当かなって」。現在クラブの代表取締役GMを務める三上大勝(52)が、強化部時代に九州へ高校の試合を視察に行った際に、たまたま目当ての高校の対戦相手だった宮古高校でプレーしていた上里。その偶然の出会いがプロサッカー選手への道を拓くきっかけとなった。

 同年9月に練習参加のため生まれて初めて北の大地へ渡った。ここでさらにプロ入りへの〝偶然〟が舞い降りることとなる。「めっちゃ寒くて体調崩して、練習参加の期間がちょっとだけ延びたんですよ。それで2試合大学生と試合することができて、得点も取れて。(練習参加からの)帰りの車で、三上さんから直接『獲りたい』という話をされました」。

2003年9月、練習生として練習に参加した宮古高3年の上里

 

宮古島初のプロサッカー選手「プレッシャーもあった」

 獲得の意向を「うれしかったですね」と喜んだ一方で、「でも頑張らないといけないなって。自分が宮古島からプロサッカー選手になるスタートで、それを変な形で名も知られないままいなくなってしまったら次が続かないと思ったので、長くやりたいと思っていましたし、プレッシャーもありました」と、故郷を背負う強い覚悟を胸に刻んでプロの世界の門を叩いた。

ルーキー年で天皇杯8強に貢献

 上里が加入した04年、札幌は経営難から従来の大型補強路線を改め育成型クラブへ方針転換。上里や現在フロントスタッフとしてチームに携わっている鈴木智樹(38)ら高卒、大卒計8人のルーキーと共にリスタートを切ったが、外国籍選手不在、結果より若手選手の育成を重視したチームは低迷し、5勝15分24敗の成績で当時12チームで行われたJ2の最下位に沈んだ。その中で上里はリーグ戦17試合に出場。室蘭で行われた天皇杯4回戦の市原(当時)戦ではプロ初ゴールとなる同点弾を決めてジャイアントキリングのきっかけをつくり出し、当時のクラブ最高成績となるベスト8入りに貢献した。「もう必死でしたよ。あの1年でクビにならないように、常に100%でやらないといけないなという感じでした。練習から必死にやっていたら、もうあっという間に過ぎて終わったなという感じでしたね」とルーキーイヤーを振り返る。

 背番号を19に変更した翌05年は完全にチームの主力選手に定着。リーグ戦初ゴールも記録し、J1昇格争いにも絡んだチームをけん引したが、夏場に左膝前十字靱帯を損傷してしまい戦線離脱を余儀なくされた。

2004年11月14日、天皇杯対市原戦の後半34分上里(右)が値千金の同点ゴールをミドルシュートで叩き込む

 

加入時は和波が20番、06年にゲット

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