プロ生活とともにあった恩師とのエピソード
現役引退後、FC琉球のスタッフとして活躍する上原慎也さん(37)の「元赤黒戦士の現在地」中編は、北海道コンサドーレ札幌入団への経緯、プロ初出場と初得点、そしてサイドバック(SB)へのコンバートなど、〝恩師〟と仰ぐ、ある札幌OBとのエピソードを交えながら振り返っていく。(以下、敬称略)
ジャイアントキリングで示した存在感
沖縄大の4年生だった2008年8月、上原の存在を強烈に印象づける公式戦が行われた。その試合は天皇杯沖縄県予選の準決勝で、対戦相手は当時JFLの琉球。元日本代表監督のフィリップ・トルシエ(68)が総監督を務めていた格上のチームを相手に、なんと上原は4得点をマーク。5-1という大差でのジャイアントキリングに大きく貢献した。
元日本代表監督・トルシエ氏からの直接オファーを拒否
「試合の後にトルシエ監督、琉球から直接オファーをいただいて」と名将から高い評価を受けたが、「僕自身はJリーグでやりたい気持ちがあったので、断ったんですよ」と、あくまで新卒でのJクラブ入りにこだわっていた。
当時スカウトだったある札幌OBから声を掛けられ
退路を断った上原には複数のクラブが興味を示したが、その中の一つが日本最北端の札幌だった。声を掛けたのは、札幌の1996年創設メンバーの一人で、当時強化部のスカウト担当をしていたあるOBだった。
「この選手、面白い」
「沖縄にJクラブに話をしてくれる方がいて『沖縄にこういう子がいるけど見に来ない?』という話を受けて、見に来てくれたのが僕の恩師である村田達哉さん(51、現J1川崎コーチ)。村田さんは1年目のスカウトで、いろいろ話をしている大学生もいたらしいんですけど、札幌がJ2に落ちる年で、関東の学生だったらみんな関東の強豪チームに(内定しているだろう)という流れの中で僕に行き着いたみたいで。村田さんが望む1番手ではなかったけど、『この選手、面白いな』という形で話をいただいて」
福岡への遠征から北海道へ
同年の10月26日に九州大学リーグ2部に出場するため福岡県に遠征すると、試合後も沖縄には帰らず、その足で北海道へ移動。翌27日には札幌の練習に参加していた。その後、11月7日に09年シーズンからの札幌加入が発表された。
「4月までに1試合出ないと、沖縄に帰すぞ」
前年にJ1から降格した札幌は、史上最多の51試合という長丁場のJ2リーグに臨んでいた。だが上原は、最初の5試合でスタメンはおろかベンチ入りもできず、危機感を持っていた。
「大卒は即戦力じゃないと1年でクビを切られるよって言われていた。僕も最初は試合に絡めなくて、村田さんから『4月までに1試合出ないと、沖縄に帰すぞ』と言われて(笑)。これはやばいって思いました」
4月5日熊本戦でプロデビュー
必死に練習に取り組んだ甲斐もあり、4月5日に行われたアウェー熊本戦(0●4)で初のベンチ入り。後半16分から途中出場でプロデビューし、村田との約束をしっかり果たした。
プロ初得点決めた試合は苦い思い出
そして、ちょうど1カ月後の5月5日ホーム栃木戦(3〇2)。後半30分からの途中出場で、9分後に待望のプロ初ゴールをゲットする。それでも自身はこの試合に苦い記憶も混じっていると回想する。
「ロングボールが来たときに、後ろに選手がいると思ってボールを避けたら誰もいなかったとか。消極的なプレーが多かったんですよね。ベンチからめちゃめちゃ『慎也、積極的に行け!』って言われて。それで『これはやばいな』と思っていたときに、西嶋弘之さんがいいボールを上げてくれて。僕が(頭で)触ってゴールをして」
祝福にも「顔が笑ってなかった」
プロ初ゴール、それも2点ビハインドから同点に追い付いた得点ということで、上原の元にはたくさんの選手たちが祝福に駆け寄ってきた。
「あのときの僕、顔が笑ってないんですよ(笑)。『いや、決まった…』みたいな感じで。抱きつきに来てくれたけど、僕だけは『これ本当にやばいな、この試合』と思いながら決めた得点だったので、本当に喜びより不安の方が大きくて。同点になって、またクロスが上がって僕が前で潰れてクライトンがシュートを決めた。結果的に逆転勝利できて、苦い思い出だったけど良かった。思い出の試合ですね」
プロの厳しい世界を実感
結局、ルーキーイヤーは全て途中出場であるもののリーグ戦25試合に出場して3得点という結果を残した。「僕の中では、プロの世界は本当に厳しいと痛感した年でした。今までサッカーをやってきて、ここまで高いレベルでやったことがなかったので、どうなるんだろうと不安の中にいて。でも(しまふく)寮でもみんな仲が良かったですし、ホームシックはなかったですね」。
3年目のSB挑戦も恩師から
翌10年はリーグ9試合出場のみで無得点と出場機会が激減し、そして迎えた11年。前年からトップチームのコーチに就いていた恩師・村田の助言を受け、サイドのポジションに挑むこととなった。
「FWの(出場)枠が少ない中で、僕もパワープレーみたいな形でしか出られない時期でした。その中で村田さんがSBにチャレンジしてみたら? と言ってくれて。村田さんもSBだったし、たぶん自分で獲ってきたから、どうにか活躍させないと、って思ったんでしょうね。僕も幅を広げるためにはいろんなところにチャレンジした方がいいなと思って。村田さんが言ってくれたんでしょうけど、練習だけSBをやらせてもらったり。裏ばかり取られて全然できなかったのを村田さんに指導していただいて…」
シーズン中盤からレギュラーに
その地道な練習が実を結んだのは、財前恵一(55)が新監督となった13年のことだ。シーズン序盤こそ左SBの大卒ルーキー松本怜大(33)や、本職はCBながら右SBとして起用されていた趙成眞(33)の後塵を拝していたが、2人の欠場時に左右両方のSB要員として先発出場の機会を増やしていくと、シーズン中盤以降は左SBのレギュラーに定着。ケガでシーズン序盤を欠場していた右SBの日高拓磨(40)と共に札幌の両翼を担った。
攻撃的な姿勢が評価され
「その布陣になってから、僕がガンガン前に行く姿勢をたぶん財さん(財前監督)が気に入ってくれて。前に行く能力は僕もストロングポイントとして持っていたので、ディフェンスは苦手だけど、攻撃で消してやろうと考えていた」
上里とのサッカーが楽しかった
サイドで躍動する上原を支えたのは、この年から札幌に復帰して中盤でタクトを振るった同郷の先輩・上里一将(38)だった。
「カズさん(上里)がめちゃめちゃ(ボールを)振ってくれるので、やりやすかった。僕はあの年が一番楽しかったです。試合に出たからというのもありますけど、めちゃ楽しかったですね。僕が14年間もサッカーができたのは、あれがあったおかげです」
恩師・村田に応える結果
13年シーズン、上原はキャリアハイとなるリーグ戦40試合に出場し、札幌在籍時では自身最多となる5得点をマーク。プロへの道を開いてもらい、日々の練習にも付き合ってくれた恩師・村田に応える結果を叩き出した。
1年目に「沖縄に帰す」とまで言われたが、結局は9年間在籍し、歴代の中でも印象に残る数々の試合を演出した。19年には歴戦の勇者として堂々と故郷のFC琉球へ凱旋。22年まで14年間に渡ってプロ生活を全うした。
後編では上原が決めた数々の劇的ゴールを中心に語ってもらう。
■プロフィール 上原 慎也(うえはら・しんや) 1986年9月29日生まれ、沖縄県出身。沖縄大から2009年に当時J2の札幌に加入。186センチの長身と驚異的な跳躍力から繰り出される打点の高いヘディングや、スピードを武器にFWやサイドバックとして活躍。18年は愛媛、19年からは琉球でプレーし、22年シーズンをもって現役を引退。札幌には9シーズン在籍し、リーグ戦176試合に出場して19得点。J1・J2通算297試合出場34得点。