【プロになった道産子球児たち 指導者の目線】高校編 ②知内・吉川英昭監督「坂本は負けてから1人でいる時間を増やした」
北海道から誕生したプロ野球選手の学生時代を見てきた指導者に話を聞く企画「プロになった道産子球児たち 指導者の目線」。高校編第2回は知内の吉川英昭監督(47)。2022年のドラフト会議で奥尻島出身左腕の坂本拓己投手(19、ヤクルト)が同校から初の指名を受けた。奥尻島出身者では佐藤義則さん(69、函大有斗-日本大)以来2人目。道内公立校からは実に15年ぶりとなる高校生の指名だった。
23年ヤクルト入団の坂本拓己投手
坂本投手は3年夏の南大会で1回戦から準決勝まで3試合連続完投。準決勝では同じ年に阪神2位指名でプロ入りする、東海大札幌高の左腕・門別啓人投手(19)に投げ勝ち、決勝の札幌大谷戦でも先発のマウンドへ送った。坂本は支部予選から合計49イニング49奪三振。堂々の結果を残し、プロ入りを果たした。
小中時代は地元でもノーマークだった
吉川監督は15年に町立の知内高に赴任。17年から監督に就任したが、それ以前は小学校の特別学級や中学の野球部で高校に上がる前の子供たちを指導してきた。赴任前も奥尻島から知内に進学する子は多かったが、坂本に関しては「小中ではノーマークで、僕は知らなかった。奥尻の子たちがうちにたくさん来てたんで、聞いていた。奥尻の先輩たちが『知内に合うから、とにかく来いよ』って言ってくれていたけど、なかなか練習会にも来なかった」と、あまり積極的な印象ではなかったそう。
降雨中断中の準備怠り再開直後にサヨナラ負け
1年秋からベンチ入りしたが、台頭するきっかけはエースとして迎えた2年秋の全道2回戦、士別翔雲戦。すでに最速は147キロまで上がりスカウトも注目し始めていた。試合は1-1で迎えた九回裏1死、士別翔雲の攻撃中に激しい豪雨で15分間の中断に突入。そこで「坂本が体を動かさずにいた姿を見て『まずいな』と思ったんですけど、再開後にポンポンとサヨナラ負け。野球って、その局面においては力なんて出せない時があって、そこから劇的に変わりましたね」。悔しい敗北が坂本を変えた。
1人行動を増やし考える力を付けさせた
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球速だけ見ると3年夏まで更新することはなかった。では何が変わったのか。「つけた力を出すことが大事で『常に出せる方法がないのか?』と考え出した。そこから『マウンドは1人なので』と、普段の生活でも1人でいることを増やしました。みんなと群れるけれども、あえて『ちょっと1人で帰るわ』とか、かなり増やした。すると次は『上がった出力を常に維持して出すにはどうしたらいいか』を考え始めました」と、試行錯誤しながら少しずつ成長した。
「困った時に何をするかを目先に囚われず続けられる」
プロ入りが決まった後、指揮官と坂本は知内小に招かれ「僕の夢の叶え方」という講演を行った。「プロ野球選手になった人って、小学校の作文でプロ野球選手になるって書いてあるのがほぼ8割。坂本も書いてました。困った時とか挫折したり、ぶち当たった時に自分が何をしたかっていうのを小学生に言おう」と、指揮官と2人で講演資料を作った。
その内容が指揮官の想像とは違った。「挫折をした時に普通はバット振ったり走ったりすると思うんです。でも坂本は違った。ご飯を食べまくったんです。体ぐらい作っとかないと俺は野球やめるしかないって危機感があったと、後で聞きました。それが中2なんですよ。やっぱりプロ野球選手になる人は、困った時に何をするかを目先に囚われず続けられて最低限のことをしっかりやれる。それはすごい」と感心したと言う。
「人によって態度を変えない強さが彼にはある」
ルーキーイヤーの23年は2軍で8試合に登板。23年4月の2軍戦初登板後、笑顔でベンチに引き揚げてくる坂本を他の選手が笑顔と拍手で迎えた姿を見て安心したと言う。「初登板の時にこうやってやってもらえて、ニコニコしたような声で面白いっす最高っすってやってるのは、これ素質です。人によって態度を変えない強さが彼にはある。だからバッターにも向かっていける。強い相手とか関係ないんです。奥尻島で、あのご家族だったからとしか僕には思えない」。奥尻島で育まれた素質が、指揮官の下で芽吹いた。そしてヤクルトで大輪の花を咲かせることを願う。