【北海14度目の春】③1995年 平川敦コーチに届けた聖地初アーチの柴田慎司さん
第96回 選抜高校野球大会が3月18日に阪神甲子園球場で開幕する。北海道から昨秋の全道王者・北海と21世紀枠で別海が初出場する。北海は1963年大会で北海道勢最高成績の準優勝を収めるなど、道勢最多14度目の出場を誇る。歴代OBから甲子園開業100周年の節目に出場する後輩たちへのエールを紹介する。
「ずっとバッピをやってくれた平川さんのおかげ」
1995年大会1回戦の報徳学園(兵庫)戦で、五回に甲子園初本塁打を放った柴田慎司三塁手(46)。前年に夏8強入りと国体優勝を経験した主力2年生4人の1人で、チームは優勝候補にも挙げられていた。当時、平川敦監督(52)はコーチだったが、同年4月からの就職が決まっていたために最後の大会だった。3-4で逆転負けしたが「ずっとバッピをやってくれた平川さんのおかげです。甲子園では変わらず真面目に1勝を追い求めてほしい。勝って北海道民を幸せに、楽しませてほしい」。監督として3度目の春の大舞台を戦う恩師の健闘に期待した。
平川コーチは仕事の都合で甲子園では見れず
平川監督は、北海学園大1年時から母校で大西昌美監督(67)の右腕として打撃投手や外野ノックなどを担当。大阪入り後「宿舎でもみんな練習やってましたけど、平川さんが見に来ると和むんですよね。雑談じゃないけど『調子どうだ?』って声かけてくれた」。当初は3月30日に試合が予定されていたが、悪天候で31日に順延。平川コーチは仕事の都合で30日に帰札しなければならず、チームを離れる際に「絶対勝てよ、お前。打てよ」と気合いを入れられ「絶対打ちます」と互いに涙ぐみながらがっちり握手を交わし約束した。「本当は平川さんの前で打ちたかった」。2年間お世話になった兄貴分への惜別の一発だった。
2カ月前に阪神大震災、開催も危ぶまれた
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大会は異様な雰囲気の中で行われた。前年は夏8強入りに加え、国体で優勝。明治神宮大会でも4強入り。「やっぱり強かったですよね。強いし、勝てると思ってましたけどね。地震の前までは、優勝できると思ってましたね」。1月17日に起きた阪神大震災の影響で開催が決まったのは1カ月後。甲子園の周辺には地震の傷跡が残ったまま。「毎日ニュースで甲子園にヒビ入ったとか、 ケガ人だとか何人も亡くなったとかってあったから、多分できないんだろうなと思っていました」。
「地元・報徳に勝っちゃいけないんじゃないか」
なんとか開催にこぎ着けたが、鳴り物は禁止で許可されたのはメガホンだけ。ガッツポーズも禁止。しかも相手は被災地の地元・報徳学園。「僕らが前の夏に4試合戦った甲子園とこの試合は全然違って、すごい緊張したんですよ。勝っちゃいけないんじゃないかっていう空気がありましたね。ピッチャーもキャッチャーも、みんなガチガチだった。シートノックから本当に固かったんですよね。夏とは全く違う雰囲気だった」。試合前から嫌な空気が漂っていた。
八回に悪夢の失策が続き逆転負け
柴田のソロアーチもあり五回を終えて3-0。高校日本代表のエース岡崎光師投手(3年)が六回まで無安打投球と、文句の付けようのない内容。「報徳の勢いはすごく感じた。明らかに押されてましたよね。途中まで勝ってたけど、そんな気は全くしなかった」。すると3-1で迎えた八回、甲子園の魔物が突然目を覚ました。先頭打者の三ゴロを「後にも先にも、もう絶対ないような暴投」と痛恨の一塁悪送球。さらに無死一塁からのイージーフライを丸山徹一塁手(3年)がまさかの落球。これでリズムを崩した岡崎投手は、1死後から四球で1死満塁の大ピンチ。ここで報徳学園の4番・中野大志(3年)の右翼戦への飛球に、中村大吾右翼手(2年)が飛び込んだが、惜しくも届かず打球は外野をてんてんとした。走者一掃で逆転。平成の甲子園初勝利がするりと逃げていった。
「自分たちは常にチャレンジャーだって思って」
当時のチームと今のチームは似ている。16強入りした昨夏もセンターラインを中心に2年生の主力が4人活躍した。「夏に負けてすんごい悔しくて、春にぶつけようと思ってやっていました。前の年のレギュラーが残ってると強いって言われがちなんですよね。でも絶対にそこで足下をすくわれる。自分たちは常にチャレンジャーだって絶対思った方が良い。夏の悔しさを、夏に出た人間はぶつけてほしい」。29年前に果たせなかった夏春連続の甲子園白星を後輩に託した。