【青春の1ページ】~F戦士が高校時代を振り返る~ 今川優馬外野手
新連載スタート 忘れられない濃密な3年間
どんなプロスポーツ選手にも、色あせることのない〝青春の思い出〟がある。道新スポーツデジタルでは、アスリートの高校時代にスポットを当て、「青春の1ページ」と題して連載する。第1回は、北海道・東海大四高(現東海大札幌高)出身の日本ハム・今川優馬外野手(27)が登場。当時のタイムスケジュールや得意だった科目など、若き日を思い返しながら語ってもらった。
毎日の通学がウオーミングアップ
―高校時代の1日のタイムスケジュールは
「朝練を(午前)7時ぐらいからしていたので、6時前に起きていました。でも、母さんは朝4時ぐらいから起きて、お弁当を作ってくれていました。下の弟の分も。頭が上がらないです。僕は寮ではなく、実家から通っていたので、起きてすぐ家でご飯を食べて、6時半ぐらいに出発。自転車に乗って山を汗だくになりながら登って、登校していました。だいたい30分ぐらいですね。それがいいアップになっていましたし、だいぶ足腰が鍛えられました。8時ぐらいまで1時間ぐらい朝練をして、授業を受けて」
継続は力なり 成長を実感できた朝練
―朝練のメニューは
「基本、バッティングが多かったですね。入学してすぐ始めました。強制ではなかったので、多くて10人ぐらいで。この時にコツコツ練習を重ねていたことが、技術になり、体力面でも強くなれたのかなと思います。本当に毎日、欠かさずやっていたのは覚えていますし、継続することの大切さを知りました。入学して、30人ぐらい(野球部の)同級生がいたんですけど、本当に一番下手ぐらい、下の方にいた。自分でも分かるぐらい下手くそだったので、何とか抜け出たいなと思ってコツコツ練習していたら、ちょっとずつ自分が成長していくのが分かったので、練習していて良かったなと思います」
意外にも!? 「勉強もわりとやっていた方」
―授業はどうだったか
「9時ぐらいから(午後)3時半、4時ぐらいまで。朝練後の8時から9時の間で、宿題をやっていました。僕は勉強もわりと、他の野球部員に比べたらやっていた方だったと思います。もともと高校で野球をやめる予定だったので、2年生ぐらいからは理系のクラスに入って勉強していました」
―成績も良かった
「中の上ぐらいですね。あんまり覚えていないですけど。できない感じではなかったです」
国語が得意な理系 休み時間は読書
―得意科目は
「理系だったんですけど、国語が得意でした(笑)。小論文とかも得意でした。今思い返せば、教室で休み時間にずっと本を読んでいたんですよ。1年生の時は、野球部の決まりで、廊下に出ちゃダメ、席から立っちゃダメ、しゃべっちゃダメ、笑顔ダメだったんです。学校、教室にいる間は、トイレ以外は廊下に出られないんです。先輩たちが上の階から見張りに来るんです。だから、何もできないじゃないですか。携帯もいじっちゃダメなので、ずっと本を読んでいたんです。本を読む習慣はずっと、小学校ぐらいからあったので、文章は得意だった記憶があります」
ノムさんの著書も読破 「そこで知識が蓄えられた」
―高校時代、読んでいた本は
「結構、いろんなジャンルの本を読んでいて、野球以外にも、心理学の本とかを読んでいました。もちろん野球の本も。野村(克也)さんの本を結構、読んでいて、そこで知識が蓄えられたかなと思います」
貴重な睡眠時間にも 五厘刈りは回避
―読書以外の休み時間の過ごし方は
「あとは睡眠ですね。朝早く起きて、練習も毎日ハードなので、くたくたで。授業中に寝たら、怒られて(髪を)五厘(刈り)にさせられますし、それだけはないようにやっていました。先輩が見張りに来た時に怒られないように、何もしない(笑)」
栄養&母の愛情たっぷりの弁当
―昼食はお弁当を
「お弁当ですね。でっかいタッパーに米を敷き詰めて、その上におかずをいっぱい乗せてくれていました。当時(体重)60キロぐらいで、ガリガリだったので、めっちゃ食べていました」
まさかの職質! 就寝前の日課で…
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―授業が終わったら、部活に
「はい。校舎から坂を上って3分ぐらいのところにグラウンドがあるので、ダッシュで行っていました。全体練習は(午後)3、4時から8時ぐらいまで。その後、9時半ぐらいまで残って練習していました。家に着くのは10時過ぎですね。帰ってからは、風呂に入って、ご飯を食べて、素振りして、寝る。素振りは自分が納得するまで振る。バットを振らないと寝られない。『ヤバい、きょうバット振っていない』ってなる感じでした。本当に一番、下手くそだったので、うまくなるには練習しかなかった。実家の前の道路で、夜中にバットを振っていたら、職質されたこともありますよ(笑)」
過酷だった『ぷんじゅう』 歴史に残る本数は今も語り草
―一番きつかった練習は
「今もやっているかは分からないですけど、『1分10』という走りのメニューがあって。グラウンドにコーンが置かれていて、そこを回って1分10秒以内に戻って来ないといけない。『ぷんじゅう』と呼ばれる名物練習でした。全員でやるんですけど、誰かが(タイムを)切れなかったら、本数に入れてくれないんですよ。いつもは10本ぐらい、全員できれば終わりなんですけど、僕が2年生の時、夏の大会に負けた後、3年生がいなくなって、2年生の新チームになってコーチから『きょうは歴史に残る日にしてやる』と言われて、本数は言わないと。俺が良いと言うまでやるぞと。結局30本ぐらいやったんですけど、それは青春ですね。今でも集まると、毎回その話になります。全員で切ろうぜって、青春でしたね」
3年夏に聖地へ 有言実行の甲子園出場
―一番の思い出は
「僕は東海大四に入学するに当たって、親と『絶対に甲子園に行く』と約束した上で、進学させてもらった。他の高校からも誘いがあったんですけど。じゃあ何で東海大四に行くのか、プレゼンしろと、両親から言われて。やっぱりお金が掛かるので。それでも、甲子園に行きたいと言って行かせてもらった。2年間は甲子園に行けなくて、3年の夏に行けたので、そこで約束を果たせた。甲子園は僕の夢でしたし、レギュラーは獲れなかったですけど、甲子園に行けたことは一番の思い出です。両親も、僕がずっと2年生ぐらいまで2軍にいて、下手だったことは知っていたので、努力を続ければ何とかなることをおまえが証明してくれた、という感じで、褒めてもらいました」
悲願の甲子園切符 「やっと報われた」
―甲子園出場が決まった瞬間の気持ちは
「僕は途中出場が多くて、決勝の前まで結構、調子が良くて、そこそこ打っていたんですよ。けど、なかなかスタメンで使ってもらえなくて、決勝もベンチでした。1―0で勝っていたんですけど、ずっと準備しながら正直、何で出してくれねーんだって思っていました。結局、最後まで出られなかった。もう1人ベンチだったやつと、早く試合に出てーなって話していたら、試合がトントン進んで、あっという間に終わって、『え、甲子園?』って(笑)。でもやっぱり、うれしかったですね。3年間、めっちゃ練習がきつかったので。やっと報われたなという感じでした」
野球愛と両親への感謝を胸に
―厳しい練習を乗り越えられた理由は
「一番は野球が好きだから。野球がうまくなりたい気持ちしかないですね。あとは、何をするにしても両親のことが頭をよぎる。ここでサボったら、お金を払ってくれている両親に申し訳ないと。何とか、自分と両親との約束を守るために3年間、打ち込んでいました」
まさに野球漬けの毎日 私服はなくジャージーの日々
―練習が休みの日は
「毎週火曜日がウオーミングアップだけの日でした。オフはなくて、アップをやって終わり。そこですぐ帰ってもいいんですけど、実際は監督、コーチもいるので、みんな結局、練習をやるんですよ(笑)。だから休みはほぼなかったですね。なので年末年始と、お盆に1日ぐらいしか休みはなかったです。だから高校時代、全く遊んでない。遊んだ記憶がないです。私服もないです。ジャージーばっかり。外食も引退した後に初めて行った感じです。大変でしたね。思い出したくもない(笑)」
奨学金で大学進学 バイト代は母へ「今までありがとう」
―引退後は
「すぐにバイトを始めました。大学に行くために、急いでお金を稼がないといけなかったので、バイト三昧でしたね。結局、奨学金で学費と部費はまかなえたので、最終的には数カ月働いたお金をほぼ全部、母さんにあげました。今までありがとうと、感謝を込めて。とんかつ屋さんのホールをやっていたんですけど、そこでの経験はでかかったですね。大学時代はキッチンでしたけど、高校時代はホールで、接客業。厳しかったですけど、一から丁寧に教わって、良い勉強になりました」
トレードマークの笑顔は高校時代の反動!?
―母校の独特なルールは
「1年生の時は本当に厳しかった。先輩に話しかけちゃダメとか。しゃべっちゃダメ、笑っちゃダメがきつかった。今いつも笑っているのは、その反動ですかね(笑)」
唯一の失敗談 連帯責任でたった1度の五厘刈り
―高校時代の失敗談は
「僕はあんまり失敗しないので。うまくやっていました。ただ1回、同じクラスの野球部員が授業中に寝て、連帯責任だと言われて、そのクラスに部員が8人ぐらいいたんですけど、全員、五厘刈りにさせられました。基本、五厘になるのは(テストで)赤点を取った時。追試があるので、それで練習に遅れてきたら五厘なんですよ。それ以外は五厘になることがないので、僕は赤点を取ることはなかったので、五厘のない3年間だなと思っていたら、何で他の野球部員は起こさないんだって連帯責任をくらった。それが唯一の失敗談ですね」
後輩たちへ熱きメッセージ 「野球が好きなら諦めてほしくない」
―当時のことを監督と話す機会は
「それがないんですよ。試合にも出ていないので。毎年あいさつには行くんですけど。ただ、おまえは本当によく練習していたよなという話はしてくださいますし、今の高校生たちにも、そういう話をしてくれているみたいです。下手だったけど練習して、プロまで行ったという話を監督がしていると、コーチから聞いて、うれしかったです。今、レギュラーじゃなくても、野球を諦めないで続ければ、僕みたいにプロに、プロじゃなくても社会人とか、その先があるので、レギュラーじゃないからといって、野球が好きなら諦めてほしくない。いろんな道があるんだよということを、僕が結果を残すことによって、示していけたらなとずっと思っています」