【プロになった道産子球児たち 指導者の目線】高校編 ⑥旭川志峯・端場雅治部長「2人はうちが勝てない時に一気に強くしてくれた」
北海道から誕生したプロ野球選手の学生時代を見てきた指導者に話を聞く企画「プロになった道産子球児たち 指導者の目線」。高校編第6回は旭川大高(現・旭川志峯)元監督の端場雅治部長(54)を紹介する。同校OBとして1993年秋からの22年夏まで29年間の監督生活で夏の甲子園に7度出場。ヤクルト・沼田翔平投手(23)、広島・持丸泰輝捕手(22)が現役として活躍している。
持丸がOP戦出場「頑張ってるから呼ばれたんだろう」
3月12日から3日間、エスコンFで行われたオープン戦、広島対日本ハム3連戦の最終日。チームに帯同した持丸は、2日連続の途中出場だったが、プロ入り後初めて観戦に訪れた恩師に合わせたかのように先発マスクをかぶってフル出場。残念ながら3打席凡退、六回1死満塁から捕逸で1点献上と、少々精彩を欠いた。「あいつがパスボールするイメージは全くないですね。プロの球は速いし、変化球も切れるしね。あの1軍の試合は、ちょっとご褒美的な、北海道だから。でもね、そうやって呼ばれて試合に使ってもらえるというだけで、頑張ってるんだろうな、と。頑張ってなかったら呼んでもらえないですね、多分」と目を細めた。
プロ1号田沢は「才能がすごかった」
同校出身のプロ第1号は、2005年に西武3位で指名された、田沢由哉投手(37、2010年引退)。1年時に背番号17でベンチ入りした夏の甲子園1回戦の小松島戦(徳島)で、マウンドも経験。「入学当初からすごかったですよ。もう能力抜群です。投げても走っても打っても、何をやっても良かった。努力はしましたけどね、もう才能がすごかった」。2年以降は支部を突破できなかったが「こういうやつがプロ選手になるんだろうな」と衝撃を受けた選手だった。
2人目はイケメンエース沼田 甲子園初タイブレークの死闘
2人目は〝イケメンエース〟として2018年夏の甲子園を沸かせた沼田投手だ。1回戦の佐久長聖戦で甲子園史上初となるタイブレークの死闘を演じた。同校では入学直後の春季旭川支部1回戦でいきなり先発デビュー。「中学の時はそれなりにボールが強かったし、いいボール投げてましたよね。まだ体が全然できてないし、軟式上がりの子だったので、細かいことは全然できてなかった。真っすぐばかりで、変化球はほとんど放れなかった。細かいことをやり始めたのは高校から」と、実戦経験を積みながら少しずつ実力を伸ばしていった。
3年春にはプロから本格的に注目され
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新チームになった2年秋に、最速145キロをマーク。ラストイヤーを迎える3年春になるとプロからも本格的に注目される存在になったが、当時は壁にぶつかっていたという。2年夏は北大会4強入りしたが、その後は2季連続で旭川支部代表決定戦の壁に阻まれた。「自分の思い通りになかなか行けないし、勝てないし。2年から主軸で投げてたからね」と責任を背負い込んでいた。だがその苦悩を乗り越え、最後の夏に9年ぶりに甲子園に出場。大舞台で自信を深め、帰道後、指揮官にはっきりとプロ入りの意思を伝えた。
2年生ながら「4番・左翼」で出場した持丸
その甲子園で2年生ながら「4番・左翼」で出場したのが、持丸だ。本職は捕手だったが「あの時は中筋という味のある選手がいた。持丸も試合の中では捨てがたくて」。持丸は指揮官に打撃を高く評価され、下級生の時は主に外野手として活躍。中学時代にはチーム事情で投手を経験するなど、マルチにこなすセンスの良さを持っていた。外野手と並行して、新チームへ向けての練習試合では捕手でもプレーした。
甲子園帰道後の新チームからは難なく捕手一本に移行。同時に主将も務めた。「こういうのがキャプテンになるんだろうな」と入学時から将来チームを任せることを予感していたという。実際、主将就任後も「チームをまとめるのがうまかった。実力もあるから。でもちゃんと言うことは言う。だから、持丸が言えば、みんな『そうだよね』と。本当は僕が言わなくてはならないようなことで、持丸に言ってもらっていたことがありました」と、絶大な信頼を寄せていた。
北海道の高校から捕手でプロ「厳しいんじゃないの?」
高校入学前からプロ入りしか目に入っていなかった。「社会人野球でプレーしていたお父さんの影響もあるのかもしれないけど、入ってきた時からプロに行きたい、とずっと言っていた。野手でプロ、高卒で北海道から、って厳しいだろう、と僕はずっと思っていたんです。野手で、それもキャッチャーって、厳しいんじゃないの?というのはずっと言ってました」。大学で4年間鍛え直してからでも遅くはない。数多くの選手を見てきた指揮官の親心だった。
そんな高いハードルを前にしても、持丸は決して諦めることはなかった。「意志は強かったですね。だから大学もほぼ決めずに、ダメだったらどうする、という話をしても、その時考えます、みたいな」。3年夏の2度目の甲子園では、準優勝した星稜の最速150キロ右腕・奥川恭伸投手(23、ヤクルト)から2安打を放つなど存在感を示し、初志貫徹で育成ながらプロ入りの夢を実現。育成最終年の3年目に支配下登録を勝ち取った。
「2人が1軍で対戦するのが見たい」
端場部長は旭大高として最後の22年夏にチームを甲子園に導いて勇退。現在は教頭の傍ら、野球部部長を兼任し、前回部長時代の93年夏の甲子園でエースとして1勝した教え子の山本博幸監督(44)を強力バックアップしている。「2人が1軍で対戦するのが見たいですね。どっちを応援していいか、分からないけど(笑)。でも好きでプロに行って、5年目、6年目になるのかな。そこまでやれているのもまあまあすごい、と思うけど、1年でも長くやってもらいたいし、早く上で活躍できるようになってほしい。沼田も持丸も、うちがあんまり勝ってない時に入ってきた子たち。あいつらが甲子園に行って、次の年また持丸が行ってくれて、うちがガガッと一気に強くなった。2人には感謝してる」。沼田と持丸が活躍し「旭大高」の名前を守り続けてくれることを願っている。