対戦相手のくせ者から札幌の一員となった第一人者
「札幌の天敵」「コンサドーレキラー」。このワードを目にして、どんな選手を思い浮かべるだろうか―。最近では、札幌との公式戦で12試合連続ゴールし、計15得点をマークしている川崎FW小林悠(36)の名前が挙がるだろう。中には、2009年から13年にかけての札幌戦7戦4得点のFW都倉賢(37、現J3盛岡)や、札幌を契約満了となった後の愛媛で5戦4得点して再び14年に札幌へ戻って来た石井謙伍氏(38)など、対戦相手としてインパクトを残し、のちに北海道コンサドーレ札幌の一員としてチームに貢献してきた選手もいる。
そんな〝天敵〟と呼べる存在から〝頼れる味方〟になった第一人者とも言える人物が、今回紹介する大塚真司氏(48)だ。モンテディオ山形在籍時に札幌に対して攻守両面でくせ者となり、その札幌から獲得オファーを受けて06年に加入。3年間の在籍期間で、クラブ最高成績となる天皇杯ベスト4や、J1昇格を経験した。前編では、現在、コーチを務めるJ2ヴァンフォーレ甲府での功績や、JFL川崎時代に札幌と厚別で演じたあの伝説の試合のこと、キラーぶりを発揮した山形時代について語ってもらった。(以下、敬称略)
縁があって甲府へ
大塚は22年に甲府のコーチに就任。現役時代に在籍したことがないクラブで新たな挑戦となったが、その背景にはかつて大宮で選手とコーチの間柄だった現在甲府の運営会社社長を務める佐久間悟(60)や、21年まで甲府を指揮していた大宮時代のチームメートである伊藤彰(51、現J3金沢監督)など、これまでのキャリアで培ってきた人々の縁があった。現在就任3シーズン目を迎えているが、大塚が甲府で歩んできた日々はクラブ史に燦然(さんぜん)と輝く日々でもある。
指導者として天皇杯優勝に貢献
吉田達磨監督(49)が指揮を執った22年、甲府は天皇杯で快進撃を演じた。3回戦で札幌に勝利したことを皮切りに、鳥栖、福岡とJ1チームを次々に撃破して、クラブ史上初めて準決勝へと駒を進めた。「勝ち上がっていくと、相手がどんどん強いチームになってくるので、選手、スタッフ、クラブもモチベーションが高まっていきました」。準決勝では国内最多タイトル獲得数を誇る鹿島を相手に見事1-0で勝利。ついに決勝の舞台へと歩みを進めることとなった。
同年10月16日、日産スタジアムで行われた決勝戦。そのシーズンのJ1リーグで3位となった強豪・広島を相手に、甲府はFW三平和司(36)のゴールで先制に成功。後半終了間際に同点に追い付かれるも、それ以上の失点を許さず延長戦を含む120分間で1-1。勝負の行方がPK戦へと持ち込まれた。
広島4人目キッカーのシュートをGK河田晃兵(36)がストップ。当時チーム在籍20年目だったDF山本英臣(43)が5人目としてシュートを成功させて、クラブ史上初のタイトルを獲得した。「天皇杯で優勝したというのは本当に大きなこと。決勝の舞台に立ったときは、すごいところで試合するんだなとベンチで見ていました。本当にこんなことあるんだなって。すごいドラマチックな展開でしたね」と、記念すべき試合を振り返る。
誰をも受け入れる環境
天皇杯制覇の偉業を成し遂げられた要因を、大塚は甲府のクラブカラーにあると話す。「ここは誰をも受け入れてくれるというのを(就任)初日から感じていて。選手ももちろん、クラブのスタッフもそう。ただの居心地の良さではなくて、それはすごく大事なことだと思います」。
甲府は2000年代初頭、資金難からチーム存続の危機にまで追い込まれたが、サポーターやスポンサー企業、自治体からの支援、そして当時のクラブスタッフの努力によって立て直されたという歴史があり、その苦難の経験がクラブにそういう雰囲気をもたらしているという。「その頃のことはあまり詳しくないけど、いろんな話を人から聞いていると、そういったものが大きいかと思います。クラブとしては決して大きくないけど、一生懸命やってくれる人たちが団結してやっているというのは大きいんじゃないですかね」。
ACLへの挑戦
天皇杯で優勝したことによって、篠田善之監督(52)が就任した翌23年はクラブ史上初めてACL(アジア・チャンピオンズ・リーグ)にチャレンジすることとなった。大塚はS級ライセンス講習のため、なかなかアウェーでの戦いに帯同することができなかったそうだが、「選手、コーチングスタッフ、そしてクラブにとっても、なかなか味わえない大きな経験をしているなって。一緒にベンチに入れるときはそう思ってやっていました」と、自身にとっても初挑戦となった国際大会を回顧する。
「前日に記者会見があったり、公式練習があって、その時間がきっちり決められていたりと、普段の試合のルーティーンとは全く違って。海外に行ったらアウェーでのいろんな経験も善かれ悪かれしますし。でも俺たちは違う場所で戦っているんだというのが自然とモチベーションになって、それをプラスにして良い結果につながっていったのかなと思いますね」
国立競技場をホームとして戦ったことで
山梨県内にある本拠地がACLの開催基準を満たしていないために国立競技場をホームとして戦ったが、地元を離れて戦う甲府を後押ししようと他のJクラブのサポーターが多数駆けつけて応援してくれた。その甲斐もあって甲府は見事にグループリーグを突破。ノックアウトステージ初戦で惜しくも敗退したものの、クラブにとっては大きな経験値を得ることができたシーズンとなった。
目指すはやっぱりJ1昇格
クラブの歴史に刻まれるシーズンを過ごしてきた一方で、リーグ戦においては甲府はなかなかJ1昇格という目標を果たせないでいる。「やっぱりリーグ戦で昇格するということが一番なので。J2で戦っているどこのクラブもそうでしょうけど、J1昇格というものを目指して必死にやっています。どこのクラブでも相手を倒せるし、どこのクラブでも相手にやられてしまう可能性がある。そういうリーグだと思うので、甲府らしい粘り強さのある戦いを一戦一戦やっていければ、さらに上に上がっていけると思います」。甲府は5月19日時点でリーグ9位。17年以来となるJ1昇格を目指し、大塚の奮闘の日々は続いていく。
札幌加入以前の逸話
ここからは大塚の現役時代にスポットライトを当てていく。札幌でプレーしたのは冒頭にあった通り06年からだが、札幌加入以前にも特筆すべき逸話が多数存在する。
大塚は1994年に高卒ルーキーとして市原(現・千葉)でプロのキャリアをスタートしたが、出場機会を求めて97年に当時JFLの川崎へ移籍した。Jリーグ入りを目指して戦っていく中で、川崎の前に立ちはだかっていたのが、同じくJFLで快進撃を続けていた札幌だ。
川崎の選手として経験した伝説の一戦
共に無敗で迎えた5月25日の第7節、舞台は札幌厚別。大塚がボランチとして先発した川崎は、後半43分に3点目を奪って3-1と札幌に2点差をつけていた。勝利をほぼ手中に収めかけていたが同44分、札幌FWバルデスに立て続けに2点を決められて同点にされると、延長後半7分に三たびバルデスがゴールを決めてまさかの逆転負け。札幌ではいまだに〝伝説〟と語り継がれている一戦を相手チームの選手として経験した。
チームは生き物
「こんなことが起こるんだなって。サッカーの怖さを感じました」とその一戦を振り返る。「若かったですし、ゲームをコントロールするというよりも必死にプレーしていたら、あれよあれよという間にスコアが動いていって。気がついたらもうチームとして歯止めが効かなくなっていましたね。チームは生き物と言いますけど、まさにそうだなというのを痛感した試合でした」。
99年は札幌を退けてJ2優勝
97年こそ札幌の後塵(こうじん)を拝した川崎だったが、舞台をJ2に移した99年には降格してきた札幌を退けて優勝を果たし、クラブ史上初のJ1昇格を達成した。
キラーぶりを発揮した山形時代
大塚は2000年に川崎でJ1を戦ったのち、翌01年からの3年間はJ2大宮で過ごした。そして04年にJ2山形に加入すると、ここで大塚は「コンサドーレキラー」ぶりを遺憾なく発揮した。
04年、05年の2年間で山形は、札幌とリーグ戦8試合を戦って7勝1敗と大きく勝ち越した。そのうち大塚が出場した試合は6戦全勝。特に04年には、この年に挙げた3得点全てを札幌戦でマークするなど攻守両面で強い存在感を発揮し、「札幌の天敵」として恐れられた。
「そういう縁があって札幌に行くことができた」
大塚自身、札幌を得意にしている意識はあったのか―。「フィーリングになりますけど、そういったものはあったかもしれないですね。特に何を意識しているというのは無かったですけど…。そういった縁で僕は札幌に行くことができましたし」。06年に札幌へ加入した背番号16は満を持して北の大地で躍動することになる。
■プロフィール 大塚 真司(おおつか・しんじ) 1975年12月29日生まれ、千葉県出身。習志野高から1994年に市原(現・千葉)へ加入。97年からは川崎でプレーし、2001年に大宮、04年に山形と渡り歩いて、06年に当時J2の札幌に完全移籍加入。主にボランチとして、現在もクラブ史上最高成績である06年の天皇杯ベスト4入り、そして07年のJ1昇格・J2優勝に大きく貢献した。08年限りで現役を引退し、翌09年からは大宮でトップチームやアカデミーの指導者を歴任。22年から甲府のコーチを務めている。現役時代、札幌には3シーズン在籍し、リーグ戦85試合に出場して2得点。J1・J2・JFL通算342試合出場17得点。ポジションはMF。利き足は右。