【青春の1ページ】~F戦士が高校時代を振り返る~ 上原健太投手
プロ9年目のドラ1左腕が登場
どんなプロスポーツ選手にも、色あせることのない〝青春の思い出〟がある。道新スポーツデジタルでは、アスリートの高校時代にスポットを当て、「青春の1ページ」と題して連載する。第4回は、広島・広陵高出身の日本ハム・上原健太投手(30)。超ハードな寮生活についてや、地元・沖縄から離れた高校を選んだ理由など、たっぷり語ってもらった。
きつかった食事 福島だったらやめていた!?
―一日のタイムスケジュールは
「寮に住んでいたので、学校がある日は朝6時15分に玄関の前で点呼でした。全員揃っていたら体操をして、そこから全員で寮の掃除です。10分から15分ぐらい。それが終わったら朝食。また飯がきつくて…毎食、米を1キロ食べないといけない。朝、昼、晩、1キロ、1キロ、1キロがノルマでした。白米500グラムを2杯。(食が細い)福島だったら、飯食べられなくてやめていますね(笑)」
―食べられない人もいるのでは
「食べないと次に進めない。遅れるとやばいので、食べるしかない。基本的に、完食するしかない。残すことは、まずあってはいけないんです(笑)。食べきるのが当たり前。1年生は、慣れるまでそこに一番、苦労しているんじゃないですかね。食べ終わったら制服に着替えてグラウンドに降りる。敷地内にグラウンドがあるので、グラウンド整備と、学校内の野球部と関係ないところも掃除します。割り振られている持ち場の掃除が終わり次第、登校する」
1年時からAチーム 「頑張らないわけにはいかない」
―朝練などは
「朝練があるのは、学校がない時だけです。夏休みは基本的には大会があるので、冬休みとかですね。冬は朝5時くらいからランニングを開始して、2時間くらい走ってから、またいつも通り、寮の掃除とかをやって、朝食を食べてグラウンドに入って、またランニング(笑)」
―通常の練習は授業の後に
「はい。学校が終わったら、走って寮まで帰って、5分くらいで着替えて、速攻でグラウンドに降りて、来た順で各自アップする。練習時間は短かったので、だいたい(午後)4時くらいから2時間、2時間半くらい。それでも、きついんですけどね。最後は、絶対に毎日、校歌を歌って練習が終わります。部員は3学年で120人いないぐらい。A、B、Cに分かれていて、Aがメイングラウンドで練習。下のグラウンドを使うBは、バッティングはテニスボールで。ノックもできないので、ゴロを転がしてネットに投げるような基本練習をやっていました。Cはだいたい1年生で、ひたすら体力強化、ランニング。僕はCでちょっとやって、すぐAに上がった。みんなはめっちゃきつい練習をしているのに、僕は1年生で試合に出ている。2、3年生でメイングラウンドに入れない人たちがいるのに。頑張らないわけにはいかないですよね」
1年生は練習後も大忙し
―寮に戻ってからは
「まずご飯ですね。だいたい3年生とか、レギュラーメンバーが最後の方まで練習しているので、1年生が先に上がって準備して、ご飯を先に食べる流れ。食べ終わり次第、またグラウンドに降りてきて、やる人は自主練習をします。(午後)8時、9時くらいまでやって、すぐお風呂、洗濯、いろいろやって、9時半に点呼。その後に食堂でミーティング。それで10時前くらいになっているので、あとは10時半の消灯まで寝る準備です。10時半を過ぎたら、しゃべっていてもダメで、電気も消さないといけないし、布団に入っていないといけない」
憧れた寮生活 オープンスクールに応募
―広陵高校を選んだ理由は
「まず、寮生活がしたかった。親元を離れて、自分一人で生活がしたかった。(沖縄出身の)こっちからすると、(沖縄県外の人は)人種が違うようなものなんですよ。しゃべり方も違いますし、方言だったり知らない言葉もある。話すタイミング、リズムも違えば、人間性も違う。全てが違いました。僕は小学生ぐらいから、いつも同じ空気感で過ごすのではなくて、違うところに飛び込んでみたいなと思っていました。なので、基本的には県外の高校を考えていました。中学3年生になる時ぐらいに、たまたまインターネットで広陵のオープンスクールを見つけて。そしたら、父親も同じサイトをたまたま見ていて、家で食事する時にその話になって、見てきたらと言ってもらえて。じゃあ見てみたいという感じで。名門だし、ユニホームはかっこいいし、見てみたいなと思って、オープンスクールに応募したのがきっかけです。それで練習に参加して、施設、雰囲気が、見たことも感じたこともないものだったので、すごい圧倒されて、それが大きかったんじゃないかなと思います。スカウトとかは一切ないです」
今ではいい思い出!? 独自ルールあれこれ
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―広陵高野球部の独自ルールは
「面白いの、いっぱいありますよ。とりあえず髪の毛は、頭に手を乗せて、指から出たらダメ。なので五厘でした(笑)。携帯禁止は当たり前で、もちろんお菓子、炭酸類もダメ。基本的にご飯は昼も寮で、学食もダメ」
勉強でも切磋琢磨 成績はクラスで2、3位
―勉強はどうだったか
「野球から離れられるものが勉強しかなくて、僕らの学年は結構みんな、勉強にハマっていました。さっき言ったように、(午後)10時半消灯なんですけど、学習室という部屋があって、そこに限っては12時まで使ってよかった。12時まで学習室で勉強して、寝て、6時過ぎに起きる生活を毎日やっていました」
―真面目なメンバーが多かった
「そうですね。みんなで勉強して、競争していました。僕はクラスで2、3位。野球部とか運動部だけのクラスはなくて、一般の生徒もいるクラスで、各クラスの上位3位くらいまでには、だいたい野球部が入っていました」
得意科目は生物学 「教えることで復習してました」
―得意科目は
「生物学と英語は結構、できましたね。生物学に関しては、テスト勉強をしたことないです。授業を聞いて、ノートを取ったら、だいたい分かりました。それプラス、赤点ギリギリのやつらに勉強を教えることで、こっちが復習していました。意外とそれでいけました。勉強が息抜きみたいな」
忘れられないオリジナルメニュー『45秒』
―一番きつかった練習は
「一番きつかった練習…1つしかないかな。ランニング。広陵の名物ランニングがあるんですけど、それが一番きつくて、一番鍛えられたんじゃないかなと思いますね。『45秒』というランニングメニュー。左翼、右翼のポールから、だいたい10メートルくらい手前のフェアライン上にコーンが置いてあるんです。それを、ホームベースからスタートして三角形に走る。距離は300メートル弱くらいかな。どんなに足が遅くても、走れなくても45秒以内に入らないといけない。全員が入らないと1本に計算されないし、本数も決まっていない。何本だからという調整が利かないんです。だいたい、最低でも20本。やばい時で50本くらい走ったかな。3時間半、4時間くらい走っていたので、もう先頭が頑張らないと、後ろが入れない。ペースメーカーがいるんです。だいたい、僕がペースメーカーをやっていました。僕は遅くても38秒くらいで入らないと、後ろが入れない。40秒は切って当たり前。相当きつかったです」
転機となった練習試合 責任感が芽生えた失点
―なぜ、苦しい練習に耐えられたか
「まず最初に入寮して、すんげえところに来たなと思いました。そんなチームで、1年生の段階から試合で投げさせてもらっていたんです。ある時、僕のせいで練習試合に負けました。1年生の僕が途中から投げて、打たれて。広陵には『4対3ルール』というのがあって、4点以上取って、3点以内で抑えないと罰走があるんです。この試合は4点以上取っていたんですけど、僕が5失点ぐらいした。そうすると、僕一人のせいで3年生も走る。その時に3年生から、『今後、こうやってベンチ入りメンバーとしてやっていくんだったら、走れなくても、先頭を走る姿勢を見せないと、誰も周りは納得しないぞ』と言われました。その姿、背中は見せないといけない。そうじゃないと、ベンチに入れない3年生も納得しない。その責任感を持って、走れなくてもいいけど姿勢を見せろと。そこで、だいぶ鍛えられたかなと思いますね。そのおかげで、無尽蔵の体力が手に入りました」
濃密な3年間 心身ともに強くなった3年間
―今にも生きている
「本当に、心と体はめちゃくちゃ鍛えられましたね。あれがなかったら、どうなっていたかなというくらい。僕は沖縄から広島に出て行った。当時、沖縄から出た人たちは、県外が合わずに、やめて帰ってきちゃう人が多かったんです。良い選手も。沖縄でも興南が強かったし、沖縄尚学も強かった。ほかにも強い高校がいっぱいあった中で、わざわざ県外の高校に行く必要ないだろう、どうせやめて帰ってくるんだろうと言われていたので、意地でもやめてやるかと思っていました。死んでも3年間やるぞと思って、なんとか3年持ちました」
大切にしていた仲間との時間
―楽しかった寮生活の思い出は
「何だろう。外出も3、4カ月に1回、2時間ぐらいしかできなかった。それも範囲が決まっていて、特に行けるところもなかった。でも、その時は何を飲んでもいいし、何を食べてもいい。炭酸が飲めるのはうれしかったです。普段は、15分でも自分の時間ができたらうれしい。その時間で、同級生たちと話したりすることが、めちゃくちゃ楽しかったです。寝る準備が終わって、消灯までの10、15分ぐらい。そこで雑談する時間が、1時間ぐらいに感じる。みんな仲は良かったと思うので、楽しかったですね。寮生活の一番の思い出は、このおしゃべりかもしれないです」