現在ヴァンフォーレ甲府のコーチを務める大塚真司氏(48)を紹介する『元赤黒戦士の現在地』。後編は、2006年から08年までのコンサドーレ札幌(当時)在籍時代、そして指導者として育て、札幌でも活躍した、あの快速FWについて聞いた。(以下、敬称略)
2006年は大型補強 目玉は〝元天敵〟
04年、育成型クラブに方針転換して再出発した札幌は、同年こそJ2最下位の12位に終わったものの、翌05年にはシーズン終盤まで昇格争いに食らいつき、J1との入れ替え戦に進んだ3位甲府と勝ち点6差の6位でフィニッシュ。柳下正明監督(64)体制3年目となる06年はJ1昇格を目標に掲げ、のちにブラジル代表としてW杯にも出場したFWフッキ(37)や、翌07年からチームのキャプテンを務めたMF芳賀博信(41)など9人の新戦力を迎えた。中でも補強の目玉だったのが、前年まで強力な対戦相手として何度も札幌の前に立ちはだかった大塚だった。
「重要な戦力として」求められた
過去のキャリアでは、大半が出場機会を求めての移籍だった大塚にとって、山形時代の05年オフに届いた複数の獲得オファーは、初めて重要な戦力として求められたものだった。同年のJ2で優勝を果たし、翌年からJ1で戦う京都や、J2・4位と札幌より上位だった仙台からもオファーを受けたが、悩み抜いた末、札幌への移籍を決断した。「一番自分のキャラクターを生かせるのではないか、と思ったのが大きかった」と、札幌を選んだ理由を回顧する。「札幌は若い選手が多かったので、チームを引っ張っていくキャラクターが必要だったみたいで。自分のそういう部分を必要としてくれ、柳下さんを中心に声をかけてくれたのだと思います」。実際、加入初年度にもかかわらず、いきなりチームの副キャプテンに任命された。
「いつもフッキとケンカしてました」
チーム力をアップしての船出となった06年の札幌は、敵地で行われた鳥栖との開幕戦で、フッキが直接FKを決めて1-0の勝利と幸先の良いスタートを切った。だが戦いぶりは安定せず、10戦勝ち無しが続いたと思えば4連勝したり、4試合で4失点以上したと思えば、2試合連続で6得点挙げたりと、乱高下の激しいシーズンを送り、最終的に3位の神戸と勝ち点14差の6位。J2リーグ戦を39試合出場2得点という成績で終えた大塚は「期待されて入ったのに、安定した試合をさせることができなかった、という印象がある。試合には出たけど、そのもどかしさがあった」と、札幌1年目のリーグ戦を振り返る。
不安定な戦いぶりとなった要因のひとつがフッキの存在。38試合に出場してリーグ2位の25得点をマークし、チームの重要な得点源となった一方で、もらったカードはイエロー15枚、レッド3枚。わずか1シーズンで合計9試合の出場停止処分を受けた。開幕当初まだ19歳だったブラジル人ストライカーは、精神的な未熟さをたびたび見せており、大塚も苦笑いを浮かべながら「いつもフッキとケンカしてましたね」と、勝利のために練習からフッキに強く要求し続けた日々を振り返る。
輝き放った天皇杯の舞台
J1に昇格できず、3年間指揮を執った柳下監督は退任が決定。この年の札幌が最も輝きを放ったのは、リーグ戦ではなく天皇杯の舞台だった。
11月8日に行われた4回戦の相手は、同年のナビスコ杯(現・ルヴァン杯)王者の千葉。出身地の千葉県にあるフクダ電子アリーナでの一戦ということもあり、多くの友人、知人が駆けつけた。大塚はフル出場して奮闘。後半22分にFW相川進也(40)が挙げた虎の子の1点を守り切り、ジャイアントキリングをやってのけた。進撃は止まらず、12月9日の5回戦・新潟戦でPK戦の末に勝利すると、同23日の準々決勝では甲府に2-0で快勝。J1の3クラブを連続で撃破し、いまだにクラブ最高記録となっている天皇杯ベスト4入りを果たしたのだった。
累積警告で出場停止 準決勝で惜敗
だが甲府戦でイエローカードを受け、累積警告のため大塚が出場停止となった準決勝・G大阪戦に1-2で惜敗し、快進撃はストップ。「出場停止で出られなかったのは残念だったし、悔しかった」と当時の心境を口にする。
三浦新監督の下でスーパーサブに
翌07年、札幌は新たに三浦俊也監督(60)を招へい。攻撃的な柳下監督のサッカーとは正反対の守備的な戦術を採用した。もう1つの特徴はサブメンバーの働きを重要視したこと。不動のレギュラーだったMF砂川誠(46、現札幌コーチ)や、前年に9得点を挙げたFW石井謙伍(38)、そして大塚も序盤戦は主にベンチからスタートして、スーパーサブとして重要な局面で投入された。
「キャンプでケガをして出遅れて。チームも勝ち点的に安定していたので、そういった起用の仕方になって。悔しかったけど、ベテランと呼ばれる年になっていたので、受け入れました」と当時の心境を吐露する。自身も指導者の立場となった現在は「やっぱり先発の選手だけではなく、交代の選手も、どういうカードを残しておくかとか、そういうことを考えて三浦さんはやられていたんだなと、今はそう思います」と、当時の指揮官の心情が理解できるようになった。
スタメン復帰したシーズン終盤に悲劇が
札幌はこの年、スタートダッシュに成功して昇格戦線をリード。中盤以降は勝ち星を積み重ねられない時期もあったが、重要な試合で確実に結果を出し、首位のままシーズン最終盤を迎えた。大塚も中盤戦からスタメンに復帰し、チームの屋台骨を支えていたが、昇格というゴールまであとわずかというところで悲劇に見舞われる。
10月27日に行われた第48節のアウェー愛媛戦。4試合連続で先発出場した大塚だったが、前半10分に突如、右膝を抱えてピッチ上に倒れ込んだ。後日下された診断は右膝前十字靱帯断裂。「いろいろなところで(膝に)負担が来ていたのかもしれない。エレガントなプレーヤーではなく、何とかしてチームを勝たせようと、必死にプレーしていたので。いろんなところで体のバランスが崩れていたのかな」。
昇格決めたものの募る不安
愛媛戦を含めてシーズン残り4試合という局面で戦線離脱。チームは最終的にJ2優勝でJ1昇格を達成したが、大塚の胸中には複雑な思いが去来していた。「最後そういう形になり、1年間フルで通してチームに自分が貢献したという思いではなかった。大きなケガをして、この先どうなるのか、という不安もあった。どちらかというと『昇格した!』『来年からJ1だ!』という思いよりも、そういった思いの方が大きかった」。
チームは苦戦 自身も力になれないもどかしさ
長期のリハビリを終えて戦列に復帰したのは翌08年8月下旬。札幌は6年ぶりのJ1の舞台で苦戦が続き、降格圏に沈んでいた。「チームが良い成績ではなかったので、上昇のきっかけになりたいという思いでリハビリをしていた。復帰はしたが、自分の思い描いていたパフォーマンスは全く出すことができなくて。チームの力になれないもどかしさが大きかった」。
札幌はこの年、結局最下位となり、わずか1年でJ2に逆戻り。同年オフ、大塚は札幌との契約が満了になると、現役引退を決めた。「シンプルにもう(現役を続ける)チームが無かったというのはある。あとは治ってからのプレーが、自分の思い描いているものと結構かけ離れていた、というのもあって。そんな思いをしながらサッカーを続けるより、ここが区切りなのかなと。切り替えるところなのかな、と思い決断しました」と、15年間のプロ生活に別れを告げた理由を語った。
「もう少しコンサドーレに貢献したかった」
札幌での3年間を「すごく期待をしてもらってオファーをもらい、札幌に入団することができが、その期待に応える仕事ができたかというと、自分の中では不十分だった。もう少しコンサドーレというクラブに貢献したかったな」と、大塚は総括する。引退を決めた後、札幌からスタッフとして在籍した上で、大学の指導者になってほしいというオファーを受けた。大塚も前向きに検討したが、同じ頃に古巣である大宮からもアカデミーコーチ就任を要請され、悩んだ末大宮へ戻ることを決断した。
大宮ユースの指導者時代 出会った逸材
11年から2年間トップチームのコーチを務めた後、13年からユースコーチ、16年から2年間はユースの監督を務めた。14年に、ジュニアユースから1人のFWが昇格してきた。その少年こそが、昨季まで札幌のスピードスターとして活躍していた小柏剛(25、現FC東京)だった。「スピード、力強さ、決定力。そういった才能もすごいんですけど、それ以上に毎日120%でトレーニングする姿勢というのは、監督ながら『うわ、こいつすげえな』って思ってました」と、当時の小柏を評する。
「うわ、こいつすげえな」
小柏は明治大学を経て、21年に大塚の古巣でもある札幌へ加入。常に動向はチェックしていたが「出て点を取ったと思ったら、またメンバーから消えていたり。気にすることしか僕はできないですけど、ケガが多いのが心配で、どうにかならないかな、と」と、活躍しながらも故障を抱えている教え子を常に心配していた。
小柏は今季から新天地でプレーしている。「ケガとの付き合いもあるが、そこを何とか克服してほしい。ユースを卒団するときに『おまえは日本を救うだろうな』と言って別れたのを覚えているが、本当に日本を救うようなメンタリティーがあると思う。そういう選手になってほしい」と、さらなる活躍に期待を寄せる。
札幌サポがチャント歌ってくれた
大宮ユースの指導者時代に札幌U-18と対戦した際、札幌サポーターが当時のチャント(応援歌)を歌ってくれたことがうれしかったと語るなど、いまだに札幌への愛着を持っている大塚。プレーヤーとして、そして小柏の恩師として、札幌に数々の歓喜をもたらしてくれた名手が、今後の指導者人生においても、多くの成功をつかみ取るキャリアとなることを心から願いたい。
【札幌サポーターへのメッセージ】
まずはこういった取材を僕にしてくれているということがありがたくて。(北海道は)ここから近くないし、引退以来行くことができていないですから。そこでまだ僕のことを覚えてくれている人たちに、僕の言葉が届くというのは本当にありがたいです。
在籍したクラブなので、状況をいつも気にしています。砂川や、沖田(コーチ)や、赤池さん(GKコーチ)とか、まだクラブ、トップチームに残っている選手やコーチがすごくいるので。お互いに頑張って、またどこかで対戦することがあると思うので、お互いに良い影響をサッカー界に与えていけたら、と思っています。
■プロフィール 大塚 真司(おおつか・しんじ) 1975年12月29日生まれ、千葉県出身。習志野高から1994年に市原(現・千葉)へ加入。97年からは川崎でプレーし、2001年に大宮、04年に山形と渡り歩き、06年に当時J2の札幌に完全移籍。主にボランチとして、現在もクラブ史上最高成績である06年の天皇杯ベスト4入り、そして07年のJ1昇格・J2優勝に貢献した。08年限りで現役を引退し、翌09年から大宮でトップチームやアカデミーの指導者を歴任。22年から甲府のコーチを務める。現役時代、札幌には3シーズン在籍し、リーグ戦85試合に出場して2得点。J1・J2・JFL通算342試合出場17得点。ポジションはMF。利き足は右。