1軍デビューした157キロ右腕・柳川大晟の原点は実家の駐車場 軟骨壊死しても投げ続けた高校時代
■パ・リーグ7回戦 日本ハム2-3楽天(5月26日、楽天モバイルパーク宮城)
育成入団から高卒3年目で初登板
日本ハムの柳川大晟投手(20)が、苦難を乗り越え1軍デビューを果たした。先発で3回3失点と苦しみ、初黒星を喫したが、育成3位入団からはい上がり、高卒3年目で晴れ舞台を踏んだ。
191センチ右腕の実家は焼き肉店
実家は大分県日出町で、焼き肉屋「元山」を営んでいる。191センチ右腕の原点は、店の駐車場で毎日のように続けた壁当てだ。「幼稚園の頃から、1日1時間ぐらいはやっていましたね。昼間は駐車場が結構空いているので、でっかい壁に思いっきり投げて、捕ってを繰り返していました。ずっと肩だけは強かったんですけど、とにかく思いっきり投げていたので、結構、それの効果があるかなと思います」。砂利の上で黙々と繰り返した全力投球が、最速157キロを誇る豪腕の基礎となった。
壁当ての球が客の車に当たり…
まだ幼い柳川少年は当然、何度も〝エラー〟をする。「何回も後ろに逸らすので、車に当ててしまうこともあって、めっちゃ怒鳴られたりしていました(笑)。でも、守備がずっと好きで、捕るのが好きだった。背が高いと守備が難しいと言われますけど、今でも、守備には自信がある方。そういうところにも、壁当てが生きているかな」と懐かしそうに振り返った。
中学、高校は順調にエリート街道
中学時代には全国のトップ選手が集まる野茂ジャパンに選出された。高校は小学生時代に甲子園を見て「ずっと行きたかった」と憧れていた福岡・九州国際大学付属高からスカウトを受け、即決した。
暗転したのは高校3年の春以降 急に肘が伸びなくなった
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順風満帆だった野球人生が暗転したのは、高校3年に上がった頃。右肘に痛みを感じ、思うように投げられなくなっていた。「3年の春ぐらいに試合で完封して、その後、急に肘が伸びなくなったんです。全然、全力で投げられない。そこからやばかったです」。夏の福岡県大会まではだましだまし、マウンドに立ち続けたが、いつの間にか身体は限界を超えていた。
母に指摘され病院 負けたら手術
「夏の大会で本当に厳しくなった。先発して、打たれて、お母さんに明らかにおかしいやろって言われて、病院に行きました。それまでは、けがだと思っていなかったんですけど、手術だと。病院に行く前の試合は勝っていたので、負けたら手術すると決めました」
けがを隠して最後の最後まで投球
手術が必要だと診断されても、柳川は最後の最後まで、周囲にけがを隠して投げ続けた。「言ったら止められるので、言いたくなかった。誰にも痛いとは言っていなかったので、周りは今の状態が普通の自分だと思って見る。1年生の頃は良かったのにみたいなこととか、いろいろ言われました。最後に負けた試合は、1イニングぐらい投げましたけど、ボロ負けでした。(高校の)監督にも、病名は言っていないです。負けて終わってから手術しますと言って、やっぱそうだよなと。親だけが知っていました。甲子園に行きたかった。結局行けなかったですけど、後悔はしていないです」。
手術すると想定以上のことが判明
敗戦後、手術を行うと、患部の状態は想像以上に悪かった。「最初は、ねずみ(野球肘、離断性骨軟骨炎)だと診断されて、クリーニング手術でそれを取るだけだったんですけど、内視鏡で中を見たら、軟骨が壊死して、ボロボロになっていました。なので、ドリリングという手術で(肘の軟骨に)穴をあけて血液を循環させて、再生させるような治療をしました。めちゃめちゃ痛かったです。術後も、長引きました。良くはなったんですけど、ちょっと(投球の)距離を伸ばすと痛くなって、それを何回も繰り返して。プロ1年目の夏ぐらいまでは、ずっとそれを繰り返していました」。
悔しさバネにもう一度はい上がる
右肘は、今でも完全には伸びない。それでも、自分の選択を正解にする努力を続け、1軍の先発マウンドを勝ち取るまでに成長を遂げた。今後は一度、登録を抹消され、鎌ケ谷で中継ぎとして再出発する。悔しい経験をバネに、また一回り大きくなって戻ってくるに違いない。