【父の日特別企画】伊藤大海の原点とは 漁師の父との二人三脚で磨いたスライダー
プロ入り後は毎年連絡 今年は「家族のためにありがとう」
日本ハムのエース・伊藤大海投手(26)は、毎年「父の日」になると父・清光さん(54)へ連絡を入れる。「プロ入ってからですね。ちゃんと伝えられるようになったのは」。16日にはLINEで「いつも家族のためにありがとう」とメッセージを送った。
「盛田幸妃杯」の会場となっていた山村広場多目的グラウンド
故郷・鹿部町には、そんな父との思い出が詰まった場所がある。実家から車で数分の距離にある山村広場多目的グラウンドだ。
鹿部町出身で大洋(現DeNA)などで活躍した故・盛田幸妃さんが創設した「盛田幸妃杯少年野球大会」の会場でもある同グラウンドは、外野に芝が敷かれ、サッカー場としても使用されている。函館東シニアに所属していた中学時代。伊藤は学校から帰ってくると、父を誘い出した。
日課だった清光さんとのマンツーマン練習
「平日はびっちり僕からお願いして、野球の投げる、打つをマンツーマンでやっていました。父さんは短パンに長靴という訳分からないファッション。長靴は砂が入らないのがいいって言っていました」。口数が少なく、ちょっぴり怖かった父は、快く練習に付き合ってくれた。
現在も少年団「鹿部クラップーズ」で指導
清光さんは、たこつぼ漁を営む漁師。早朝から漁に出る。「昼ごろに仕事が終わって昼寝して。(午後)3時くらいに起きて」。仮眠を取り、息子の帰りを待つのが平日のルーティンだった。学生時代、バレーボール部に所属していた父は、野球未経験だが「昔の子どもだからできるよ」。今も伊藤が所属した少年団「鹿部クラップーズ」で野球を教えている。
打って投げて ボール拾いも2人で
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町民は無料で使用できる山村広場多目的グラウンドは、練習場所として、うってつけだった。清光さんは「硬式のボールを打てるところはなかなかない。50球くらい打って。拾いに行って。2人で拾うのは大変だったなあ。ピッチング練習もここでやっていましたね」。息子とのマンツーマン自主トレを、懐かしそうに振り返る。
最後の一球はいつもスライダー
当時の伊藤には、目の前に立ちはだかるライバルがいた。小学校から一緒のチームでプレーしていたエース・渡辺幹理さんに、追い付こうと必死だった。父が捕手役を務め、マウンドで行う本格的なピッチング練習。最後の一球は、いつも決め球のスライダーだった。
「あの時は、素人でも捕れる球だった。その時からスライダー投げていましたよ。最後に何を投げたいの?と言ったら、スライダーを投げたいと」。手が痛くならないよう、グラブの中に軍手を2枚はめてボールを受けた。
負けん気の強さは少年時代から
スライダーを投げ続けた理由が、負けず嫌いな伊藤らしい。「幹理はカーブが良かったんですよ。同じような練習するの嫌だなと思って、スライダーばかり投げていた記憶があります。ダルさん(ダルビッシュ有)も前田健太さんもすごいスライダーを投げていたので見てまねして。握り自体は今でもマエケンさん。ずっと変えていないです」と明かす。
練習はうそをつかない 見る見るうちに成長
息子の成長スピードはすさまじかった。「最初、1年生の頃なんて、(外野の)芝まで打球がいかない感じだった。硬球が外野まで飛ぶ気配がなかったな」と清光さん。雪でグラウンドが使えない冬場、伊藤は基礎体力の強化を行った。「結構、ランニングしました。本当にガリガリだった。あと飛ばし方、覚えましたね。そんな振らなくても飛ぶようになりましたね」
清光さんもびっくり 「そんなに変わるのかな」
地道な努力は実を結ぶ。2年生となり、久しぶりにグラウンドで打撃練習をすると大きな変化があった。「どこで飛ばすツボを得たのか、急に外野を超えるようになった。45メートルしか行かなかったのが、90メートル。そんなに変わるのかなと思って、びっくりした」。父も驚く変貌ぶりだった。
決して忘れない日々 「父さんのおかげ」
二人三脚の日々を経て、右腕は球界を代表する選手になった。ここまでレベルアップできたのは、練習のパートナーを務めてくれた「父さんのおかげ」
山村広場多目的グラウンドで一緒に白球を追いかけた日々が、伊藤大海の原点だ。