高校野球
2024/08/03 16:45

道高野連元常務理事の小島誠さんが日本高野連から育成功労賞 15日に甲子園で授与式

長年の功績が評価され、日本高野連から育成功労賞を受賞することになった小島さん=撮影・西川薫

 北海道高野連元常務理事の小島誠さん(66)が、日本高野連から「育成功労賞」を受賞する。全国高校野球選手権期間中の8月15日に阪神甲子園球場で式典が行われる。旭川竜谷(現・旭川龍谷)2年時に夏の甲子園に出場。帯工では、1990年から18年間監督として指導。2012年から同連盟の常務理事を7年間務め、教員定年後の現在も同連盟のOB運営委員として、旭川スタルヒン球場で試合の円滑な進行をサポートしている。

「オレなんかがもらっていいのか」恐縮しきり

 灼熱の甲子園のグラウンドに49年ぶりに足を踏み入れる。育成功労賞の受賞に「甲子園は1回ちょっとだけ視察に行った時に。でも雨が降っていたグラウンドには出なかった。オレなんかがもらっていいのか、という感じです。うれしいですよね。本当に多くの人たちがいっぱいいるのにね」と、恐縮しながらも受賞に感謝した。

旭川竜谷2年のとき75年甲子園出場に貢献

 青春の記憶は色あせず、いまも脳裏に焼き付いている。旭川竜谷は初出場の1973年夏に甲子園初出場。小島さんは74年入学。「すでに向峯(斉)さんが甲子園に行っていたんで。本当に、すさまじいセンスの先輩がいっぱいいましたね。本当うまかったです」。74年はスタンドだったが、75年は2年生ながら「2番・三塁」で3年連続出場に貢献。北大会3連覇の偉業を成し遂げたのは、後にも先にも旭川竜谷だけだ。

 甲子園では2回戦から登場。初戦で優勝した習志野と対戦し5-8で敗れた。「あっという間の夢のような世界。冷静さに欠けていたかな。初戦で負けたんですけど、実は国体に選ばれたんです。そこで(8強入りした)東海大相模に勝ったんですよ」と、当時を懐かしんだ。

専大卒業後、中学教師経て帯工に赴任

 専修大卒業後、社会科の教員として初任地は野球部のない稚内抜海中。3年後、名寄東中で初めて野球部を指導。90年春に帯広工業に赴任した。「(1981年に)1回甲子園行ってますから、なんとか甲子園に、という機運はあった」。しかし当時の十勝地区は、帯広北や、帯広南商業、帯広三条などの強豪がひしめく激戦区。「行ってすぐ監督やってほしい、という話になったので、スムーズにできましたが、いかんせん力不足ですよね。もちろん高校での指導歴はないし、自分がやってきた高校のイメージでやっちゃうと、そう簡単にいくわけないので。最初は困りましたね。ほんとに勝てなくて」。99年に監督として初めて北北海道大会に出場。18年間で、甲子園につながる夏と秋で8強に2度ずつ進出した。

「体動かすの好き」打撃投手買って出た

 指導方針は子供たちと同じ目線に立つこと。「僕は体を動かすの好きなので、野球が好きだから一生野球に携われた。本当はじっと構えて選手全体の動きを見るのが監督なんだろうと思ってたけど、バッティングピッチャーはしょっちゅうやってました。本当に最後の最後までやってました。朝練中ずっと投げてましたよ。1時間以上。僕的にはバッティングの調子を見るのが一番いい。修正するのにも。2班に分けて1日おきなんですけど、僕は毎日300球とか400球とか投げてましたけど、楽しかったですね。ノックも打ちましたが、それが楽しかった。選手にとっては勘弁してほかったかも(笑)」とほほえんだ。

 08年3月に旭川東栄に異動。部長を務めながら、12年に道高野連の常務理事に就任。18年には夏の選手権100回大会が開催。北北海道大会の開会式では「確か200人ぐらい生徒を使って、ブラスバンドとか合唱だったり、甲子園に負けないくらい」。準備に奔走した。

道大会の出場校数固定、道外強豪校の招待も

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