札幌日大高の甲子園初出場を支えた全国大会V右腕・佐々木颯大記録員【夏の甲子園】
■全国高校野球選手権第2日(8月8日、阪神甲子園球場)
▽1回戦 京都国際7-3札幌日大高
初陣初勝利を目指す札幌日大高のベンチに、小学生時代にエースとして全国制覇した佐々木颯大(3年)の姿があった。ただ、今は背番号はない。記録員として、制服姿でスコアブックを片手に、グラウンドに立つ選手に大きな声で指示を出した。敗れはしたが「3年間やってきたことを甲子園で出せた。特に九回の攻撃、2点返したあの流れは、メンバーに入ってない選手も含めてチーム一丸となり、つながったものが結果になって表れた」。グラウンドで戦う仲間の姿に胸を張った。
対戦相手が決まってからは分析作業
1日に大阪入りしてから対戦相手が決まるまで、練習道具を出すなど補助に徹した。4日の抽選で対戦相手が京都国際に決まって以降は、ベンチ外の3年生と分析作業にあたった。時間が足りなければ宿舎に戻ってからも続け、気付けば消灯時間をオーバーすることもあった。「選手として公式戦に出られないという悔しさはあったんですけど、それよりも人間的に成長できて、こういう役職もあったおかげで周りを見られるようになった」。選手としてグラウンドに立つことはできなかったが、後悔はない。
「東16丁目」「新琴似」でもエース
佐々木は小学5年の時、東16丁目フリッパーズで全国制覇。当時レギュラーではなかったが、6年時にはエースとして、もう一つの全国大会で優勝した。中学硬式の札幌新琴似リトルシニアでも3年時にエースナンバーを背負い、日本選手権に出場した。その年、春季全道高校野球大会を制した札幌日大高の「戦い方とか選手たちのプレーとか、選手が主体となって考えていく野球がいいと思ったのと、根拠はないんですけど、甲子園に出て勝ち上がっていけるイメージがあった」。チームメートの増田圭吾内野手(3年)と一緒に甲子園を目指した。
2年後のエース候補がなぜスコアラーに?
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中学までの実績から、入学時は2年後のエース候補と期待された。ところが3年間で公式戦登板はなし。同級生に小熊梓龍投手(3年)がいたことも要因だったが、球速も120キロ後半と伸び悩んだ。2年の秋、練習試合でスコアをつけ始めた。初めは自分のためだった。「練習試合に出てはいたんですけど、主戦で投げることはなかった。フォームも自分の中で定まらなくて。下半身と上半身の連動がうまくいかない。試合の機会が少ない中で、ベンチに入ってスコアを書くことで、いろいろ学べるものがある」と、自ら率先してスコアを書くようになった。その姿を見た森本琢朗監督(43)から公式戦でスコアラーの役職を与えられた。
3年春にメンバー外 大きな決断
ただ、その時はまだ選手としての目標を諦めたわけではなかった。「最後の夏に向けて、冬もトレーニングをしてましたし、背番号をもらって甲子園で活躍するのを目標にやってました」。しかし春もメンバーに入れず、大きな決断を下した。「もちろんメンバーには入りたかったんですけど、そこをしっかり全うして、チームの一員としてやっていこうって切り替えました」。自分のためにつけ始めたスコアは、チームの勝利のためへと目的が変わった。「チームの課題や良かったところを、プレーしている選手とは違う視点で見られるので、そこでチームに貢献できてる」。ルートは変更になったが、同じ目標へと昇ることを選択した。
菊地主将「こいつがいなかったら行けなかった」
菊地飛亜多主将(3年)は証言する。「自分たちのために動いてくれますし、絶対にこいつがいなかったら(甲子園に)行けなかった。みんなからの信頼とかもそう。佐々木のことを嫌いな人は誰一人いないです」。試合終了後、三塁側アルプススタンドにあいさつを終えると、泣き崩れる選手に手をさしのべた。「3年生はこれまで戦ってきて、いろんなことあったんですけど、その中で菊地を中心に引っ張ってくれて、すごいいチームだった。ありがとうって感謝を伝えました」。すっきりとした表情で〝背番号のないエース〟が聖地に別れを告げた。