コンサドーレ
2024/08/18 15:00

《元赤黒戦士の現在地・佐藤尽後編》激動時代に主将経験し、引退後は〝バンディエラ〟獲得に尽力

札幌で現役生活を終えスカウトへ

 北海道コンサドーレ札幌の初代道産子キャプテンを務めた佐藤尽さん(49)の「元赤黒戦士の現在地」後編は、札幌での3シーズンの戦い、そして〝2代目道産子キャプテン〟の獲得に携わった強化部スカウト時代について語った。(以下、敬称略)

出足でつまずいた02年の札幌

 日韓W杯が開催され、日本中がサッカーで大きく盛り上がっていた2002年。前年にクラブ史上初のJ1残留を達成し、新監督に現役時代に日本代表のキャプテンとして活躍した柱谷哲二(60)を招へいして新シーズンに挑んでいた札幌だったが、開幕から苦しい戦いが続き、W杯中断前に行われたリーグ戦7試合で1勝6敗と最下位に低迷。中断期間に指揮官交代を行い、イバンチェビッチ監督(73)の就任後は試合内容に改善こそ見られたものの、最初の3試合で2度のVゴール負けを含む3連敗を喫するなど、最悪のスタートを切ることとなった。

守備の立て直しへ白羽の矢

 10試合で25失点と大苦戦していた札幌守備陣。その立て直しを図るべく白羽の矢が立ったのが、当時京都に在籍していた室蘭市出身の道産子DF佐藤だった。「自分が入ったときに、2人目の監督が就任したぐらいのタイミングで。そこに対して選手も補強するという札幌の思いと、自分自身そのとき京都でなかなか試合に関われていなくて、もっと自分の存在価値を表してみたいという部分で合致して。地元だからというような意識よりも、そのオファーに対して期待に応えたいという思いで、移籍の方向に傾いたというのが現実ですね」。

2002年8月、加入直後の札幌でトレーニングに励むDF佐藤

 

結果が出せなくてもがいていた

 佐藤は1stステージ第12節のホーム清水戦(2●3)に先発フル出場して札幌でのデビューを果たす。だがチームは善戦こそするものの白星に手が届かず、中断前から続く連敗は9にまで伸びていた。「何とかこの状況を変えたいと。そのために必要だということで取ってもらった中で、うまく結果が出せなくてもがいてましたね。クラブの期待に結果で応えられなかったという意味では、申し訳ないなという思いが強かったです」。

勝利しても内容に課題 「こういう形でしか勝ちを拾えないのか…」

G大阪戦で10試合ぶりの勝利を挙げて、サポーターと喜びを分かち合うDF佐藤(右から2人)ら札幌イレブン

 

 札幌は8月10日に札幌厚別で行われたG大阪戦に1-0で勝利し、実に10試合ぶりのシーズン2勝目をマーク。佐藤にとっても待望の加入後初勝利となったが、喜びの反面、チームとしての課題も突きつけられた試合だった。

 「今考えても、攻撃のところでなかなか自分たちの思うような状況をつくり出せずに、ずっと守り続けているような展開が多くて。初めて俺が行って勝ったのはG大阪との試合だったと思うんだけど、そのときもPKで1点取って、押されてはいたけど、何とかゼロで抑えたような試合で。こういう形でしか勝ちを拾えないのかなって思うぐらい、苦しいシーズンだった」

 終わってみれば全30試合で5勝(うちVゴールで1勝)しか挙げられなかった札幌は、年間最下位でJ2へ降格してしまった。

2002年11月17日ホーム名古屋戦で​​​札幌加入後初ゴールを挙げたDF佐藤(手前左)

 

自身キャリアハイもチームは低迷

 翌03年、京都時代以来2年ぶりにJ2で戦った佐藤は、28試合に出場して4得点を挙げるなど、いずれもキャリアハイの数字をマーク。だが、1年でのJ1復帰を目指してジョアン・カルロス監督(68)を招へいし、さらに大型補強を敢行したチームは、歯車がかみ合わない時期が長く続いて低迷していた。

 共にJ2へ降格した広島が2位に入ってJ1昇格に成功した一方、札幌はその広島から勝ち点34も離され、12チーム中9位でシーズンを終えた。

2003年6月21日ホーム甲府戦で、一時勝ち越しとなるゴールを決めたDF佐藤(左)

 

「同じ絵を描けなかった」

 「チームって本当に歯車じゃないけど、それなりのクオリティーの外国人選手が入ってきて、チームとしてうまく回そうとしたときに、一つの幹に対してうまく回っていっているというよりも、個の力のところで何とか全部補っているような感じで。なかなかチームが同じ絵を描いているというところに持っていけなかったかなという印象があります」

方針転換したチームの主将へ

 そして04年、クラブは前年までの大型補強路線から、育成クラブへと方針転換。外国籍選手ゼロ、8人の新卒選手獲得など、ガラリとチーム構成が変化した中、同年30歳を迎える佐藤にキャプテンという大役が任されることとなった。

 「自分よりも年齢が上の人がいなくて、ニシ(DF西澤淳二)と自分の2人が年長者だった。自然と何かをやらなくちゃいけないという思いがあった中で、キャプテンを任されて。特に何か気負うこともなく、自然と『やります』みたいな感じになって」と、就任時の心境を振り返る。

柳下監督の教え

 開幕の時点で在籍していた26人中、新卒3年目以内の選手が15人という、非常に若いチーム構成だった当時の札幌。そんなチームを率いていた柳下正明監督(64)は、学生に教えるような基礎を選手たちに教え込むことに腐心していたという。

 「自分も今、指導者をやっている中で、ヤンツー(柳下監督の愛称)さんに教わった感覚みたいなものは、監督がどういうものを求めているのかというのも含めて、自分でかみ砕いて練習ができるようになっているぐらいの年齢だったから、すごく刺激が多かったイメージがあります」

開幕戦の負傷でまさかの長期離脱

2004年3月13日、甲府との開幕戦前に集合写真を撮るDF佐藤(後列右から2人目)ら札幌イレブン


 クラブ史上初の道産子キャプテンとしてチームをけん引しようとした佐藤だったが、思わぬ苦難が降りかかった。3月13日に札幌ドームで行われた甲府との開幕戦に3バック中央の位置で先発出場も、試合途中に右足を痛めて後半19分に負傷交代。右膝の内側側副靱帯損傷の診断が下り、約2カ月に渡って戦線離脱することになった。

そのまま出場機会が激減し引退へ

 5月中旬に合流し、再びレギュラーに復帰したが、夏場からDF曽田雄志(46)が3バック中央で起用され始めると、佐藤の出場機会は激減していった。最終的には14試合の出場にとどまり、同年限りで札幌との契約が満了。現役続行の道を探り、合同トライアウトにも参加したが、この年をもって現役を引退することとなった。

 佐藤が在籍した02年から04年までの3年間は、J1から降格やJ2での低迷、育成路線への方針転換に伴いJ2最下位を経験するなど、札幌のクラブ史において最も激動と言える時期だった。

どん底の時期を選手として経験

 「あの当時に比べたら今の札幌はちょっと想像しがたくて、すごく右肩上がりに結果が出て、地方クラブのモデルになるようなチームになったと思う。札幌のどん底の時期を選手として過ごしたみたいな感じだから、皆さんにとって俺がいた頃ってあまり良いイメージはないと思うんですよね。札幌では苦しいシーズンが続いたというイメージが強かった」との思いを吐露する。

地元での選手生活は幸せな環境

 ただ、そういう状況の中でも、ホームアイランド・北海道でプレーできた喜びも感じることができたプロ生活だった。「やっぱり室蘭に近い札幌で、親族や仲間が見に来て、その反応がダイレクトにあるところでプレーできたというのは、サッカー選手としてすごくやりがいを感じたし、すごく幸せな環境だった」。

強化部3年目で母校の後輩を担当

 引退後の05年からは、札幌の強化部に入ってスカウトを担当した。3年目となった07年、佐藤はある高校生の獲得に携わることとなる。「自分の出身高校の選手で、すごく有望な選手がいて」。その人物こそが、翌08年に加入し、現在に至るまで札幌ひと筋のバンディエラとして活躍するMF宮澤裕樹(35)だった。

強豪クラブのオファー断って入団

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