【青春の1ページ】~F戦士が高校時代を振り返る~ 野村佑希内野手
第8回は6年目のスラッガーが登場
どんなプロスポーツ選手にも、色あせることのない〝青春の思い出〟がある。道新スポーツデジタルでは、アスリートの高校時代にスポットを当て、「青春の1ページ」と題して連載します。第8回は、埼玉・花咲徳栄高出身の野村佑希内野手(24)が登場する。2年夏の甲子園では、4番として埼玉県勢初の全国制覇に貢献。一躍スターとなったスラッガーは、どんな学生生活を送っていたのか。得意科目や学校行事の思い出も語ってくれた。
学校敷地内の寮生活 朝練なし
―高校時代のタイムスケジュールは
「普通に朝練はなくて、僕は寮生でした。(午前)7時に点呼で、学校の敷地内に寮がある。歩いて校舎に1分。7時半くらいに寮を出て、朝ご飯を学校の食堂で食べて、そこから(午後)3時半まで授業です。普通の6時間授業です。体育と美術と音楽の専門クラスみたいな感じでした。4時から練習で7時まで全体で練習。寮生は一回、学校の食堂に行って夜ご飯。寮生がご飯を食べている1時間の間に通い生が、8時まで夜練。8時半から寮生が夜練スタートして10時まで。10時半に点呼があって、消灯12時でした。寝るまではお風呂入って、洗濯したりしていました」
国語は「勉強しなくてもずっとできました」
―勉強は国語が得意だったと聞いた
「国語は得意でしたね。勉強は特にしていないですけど、国語はテストの中に答えがあるので、勉強しなくてもずっとできました。中学生の頃からですね。授業は普通に一般生と一緒ですが、保体類型なので体育めっちゃ多いです。専門体育といって、毎日2時間は絶対ありました。水泳とか、試合や競技がテストの点になる。水泳だったらタイム。何秒以内とか。水泳は(幼少期に)一通り泳げるまで習っていました」
英語は…「そんな点数高くなかった」
―苦手科目は
「勉強していなかったので、基本的に暗記しないといけないやつは点取れなかったです。生物とか。勉強しないと点取れないやつは点取れなかったです。(勉強する)時間もないし、する気もないし(笑)。(米国生まれだが)英語は…基本的にそんな点数高くなかったですね。でも、赤点は取ったことないです」
断然きつかった〝徳栄ビーチ〟
―花咲徳栄の伝統メニューは
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「砂浜は毎日走っていましたね。(部員)みんなで作りました。元々、毎年冬に50メートルの砂場を走っていたのですが、僕が2年の時の冬に(外野)ポール間をスコップで掘って、砂を埋めて(全長およそ180メートルのビーチを)作りました。海の砂浜走っているみたいでした。普通に走っているより断然きつい。〝徳栄ビーチ〟と言われているし、伝統メニューじゃないですか。当時は20本とか走っていましたね」
「監督に一番怒られていると思います」
―高校時代の一番の思い出は
「やっぱり甲子園優勝じゃないですか。楽しかったですけどね。僕だけ2年生だったので、(岩井隆)監督にめちゃめちゃ怒られていましたけど。甲子園行ってからも。僕らの代だったら、一番怒られていると思います。期待はしてもらっていたと思いますし、1年から気に掛けてもらっていました」
―寮生活でホームシックになったり
「ないですね。僕は寮に入りたかったので、家を出たかった。(周りに)人がいたら何にもやらないと分かっていたので家を出たかった。最初から(生まれ育った群馬)県外で高校を探していました」
「体育祭は出歩くの禁止でした」
―野球以外で学校行事の思い出とか
「僕らは文化祭も試合だったので。招待試合で1年生の時は文化祭に行けていないし。体育祭は野球部のレギュラーは人がたかっちゃうので、トイレ以外は自分の持ち位置から出歩くの禁止でした。優勝した年がすごくて、僕の時から(出歩くのが)ダメになりました。誰か周りにつけろって。(全国制覇後は)学校帰っても、(学校のある)加須市でもすごかったですね。祝勝会、報告会とか。僕ら弱いって言われていたんですよ。終わってみればですよ。(現中日)清水(達也)さんも球全然投げられていなかったし、(現西武の西川)愛也さんも肩壊していたし。大胸筋断裂して治っていなかったので手術してリハビリしながらでした」
選んでよかった「人生の大きな分岐点」
―改めて3年間を振り返って
「自分があるのは高校のおかげなのは間違いない。岩井監督に声をかけてもらって、行けた高校ですし。人生の大きな分岐点。ポイントにはなっていると思います。甲子園は一つの夢だったので、そこに行かせてもらえた。すごく感謝しているというか、徳栄を選んでよかったと思います。オフは毎年(学校へ)あいさつに行っていますし、岩井先生からよく連絡も来ます。野球部は応援してもらっていたので、他の学校の先生とも連絡を取っています」