【青春の1ページ】~F戦士が高校時代を振り返る~ 細川凌平内野手
第9回は日本ハムが誇るユーティリティープレーヤー
どんなプロスポーツ選手にも、色あせることのない〝青春の思い出〟がある。道新スポーツデジタルでは、アスリートの高校時代にスポットを当て、「青春の1ページ」と題して連載します。第9回は、智弁和歌山高出身の細川凌平内野手(22)が登場する。地元京都を離れ、アパートで下宿生活。3年時には新型コロナウイルスの影響で、史上初めて春、夏の甲子園が中止となった。〝師匠〟と呼ぶ先輩、プロ経験もある恩師との出会い―。強豪校で野球にささげた3年間を振り返ってもらった。
洗濯機を回しながら素振り
―1日のタイムスケジュールは
「朝練はなくて、授業に合わせて学校に行く。僕は下宿生なので、朝ギリギリに起きて着替えて。先輩(で楽天)の黒川さんの部屋をピンポンして一緒に自転車に乗って、コンビニで朝ご飯を買って、そのまま学校まで行って教室で食べていました。学校に着いて4時間目まで授業を受けて、だいたい(午後)2時くらいから練習です。智弁は購買も学食もない。もともと学校の理事長の考えで、親のご飯を食べるというのが基本。僕たちは(近くに)いないので、学校に特別、弁当みたいな給食を取ってもらっていました。2時から練習で、全体練習はだいたい6時くらいまで。そこから自主練。9時半くらいには学校を出て。下宿の近くに〝みきのや〟っていう定食屋さんがあるんですけど、そこに毎日行って、ご飯を食べさせてもらって、帰ってすぐ洗濯機を回して。洗濯機を回している間に素振りをして、戻ってきて洗濯物を干して寝る」
ホームシックになった下宿生活
―高校生で1人暮らしは大変
「大変っす。洗濯機を回している間に素振りとお風呂を終わらせる。どれだけ洗濯の間に終わらせられるか。(午後)11時は余裕で過ぎますね。でも、楽しかったですよ。先輩とゲームしたりとか。ピッチャーの先輩がゲームを持っていたり、だいたいは素振りをしていましたけど」
―アパートには先輩も暮らしていた
「僕が入った時は3年生が3人、2年生が2人。あとは僕だけだったので。(1年生は)1人だったので、最初はきつかったですよ。めっちゃホームシックになりました。めっちゃしんどかった」
定食屋で夕食 今でもオフにはあいさつへ
―毎日、定食屋で夜ご飯が出る
「そこで毎日っす。水曜日以外は。20何年間、下宿生はそこ。(オフ)智弁に帰った時は毎年、あいさつに行きますよ」
―下宿生活のおかげで成長できた
「時間の使い方とか、どうしたら効率良く終わらせられるかとか、ルーティンみたいなのは確立されました」
心配性の父親から毎日のように連絡
―その時から掃除は得意
「全然できていなかったです。しんどすぎて。無理っす。最初はきつかったし。特に6月は(練習が)追い込み(期間)だったので、その時とか帰ってもう、やばいって。親がたまに来て掃除してくれていました」
―両親も心配していた
「心配していましたよ。オヤジが特に。僕もですけど、父親も子離れできていなかったので、ずっと一緒だったので。母親は心配はしてくれたと思うけど、基本的に連絡を取っていたのは父親でした。父親が心配性で高校の時は最初の頃、毎日、連絡が来ましたね。1人暮らしなので、だいぶ心配だったんだと思います」
〝師匠〟との出会い 「この人に付いていきたい」
―1学年上の先輩、黒川がサポートしてくれた
「そうですね。1年の新チームが始まる前くらいから、ずっと黒川さんと一緒に行動して。次の代のキャプテンは、ほぼ黒川さんと決まっていた。おまえが中心選手としてやらないと、次の代は甲子園に行けへんから頑張ろう、自覚持ってやれよ、みたいなことを言ってもらって、そこから、この人に付いていこうと。この人に付いていきたいと思える先輩に初めて出会えた。こんなに尊敬できると思った先輩はなかなか。それまでもいい先輩はいましたけど、それまで以上に黒川さんからは影響を受けるものがありました。僕の師匠です」
過酷だった伝統メニュー「タイムレース」
―智弁和歌山の伝統メニューはあるか
「タイムレースっていう300メートルくらいを50秒以内で走るメニューがあって。6月とか、めっちゃ走るんですけど、それはきつかったですね。タイムレースといったら智弁全員、分かると思います。(走るのは)得意な方ではありましたけど、きついですね」
コロナによって奪われた日本一への挑戦権
―高校時代を振り返り、一番の思い出
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「どうやろう…。3年の時が一番、残っているかな。2020年の2月くらいからコロナが徐々に日本で出だして、これやばいんちゃうって、監督やみんなと話していた。センバツ(出場)も決まっていたので、自分としては(甲子園に)4季連続で出られる。5季連続にリーチがかかって、自分たちの代でキャプテンだったし、最後は絶対、日本一を取るために頑張ろうと思っていた時にセンバツ中止と発表されて。その時に監督から、悲劇のヒロインにだけはなるな、気が落ちて甲子園に行けなくなったら、それはカッコ悪い。だからこそ夏、日本一を取るために、全員でもう一回、夏(の甲子園に)行くために頑張ろうと監督から言われた。6月にやっと学校が始まるとなった時、5月20日に甲子園の会見が行われます、と。その日も練習していたんですけど、(午後)6時前くらいに会見が行われて、中止。5月20日、めちゃくちゃ覚えていますよ。あの日は忘れられないです。夏、絶対、日本一取るぞと思って練習もしていたし、取れると思っていた矢先でのその日だったので。まさか中止になるなんて思っていなかった。観客が入らなくてもやってほしかった。そこは結構、きつかったです。そこから3日間、休みをいただいて、一回、気持ちの整理をして親とも話せみたいに言ってもらって、(地元に)戻って。和歌山大会が独自大会をやってくれるかもしれないから、もしそれがあった場合は絶対、優勝しよう。強い智弁和歌山を次の代につなげていくためには、和歌山で一番になることが俺たちが最後にできること。日本一じゃないけど、和歌山でトップを取れるように頑張ろうと話して、また練習が始まりました。自分たちの代で途切れさすわけにはいかない。それまでは先輩に連れていてもらった甲子園。自分たちが後輩を甲子園に連れて行く、自分たちで成し遂げたいというのがあった。それはかなわなかったですけど、独自大会で優勝できて、その次の年に1個下が夏の甲子園で全国優勝してくれたので、そこは良かったかなと思います」
確かな目標を持って入学した智弁和歌山
―濃密な3年間だった
「そうですね。全部、経験できましたよ。本当、1年の春からベンチに入れてもらって、試合も出させてもらって。なかなかないっすね」
―1年春からベンチ入りしていたのは細川だけ
「ピッチャーもいました。ピッチャーも2人か1人。1年夏は3人入って、甲子園は2人。チャンスもいただいたし、監督が代わった時でもあるので。1年の夏まで高嶋(仁)先生。もちろん良い経験でしたけど、中学校の時に声をかけてもらったのが中谷(仁)さん。中谷さんが智弁に帰ってきたタイミングで最初に声をかけてもらった選手だった。高卒でプロに行くというのが、僕の一番の目標で。そのためには1年の時から(試合に)出て、スカウトの目に留まって、なおかつ甲子園で全国優勝したいっていうのが中谷さんと話したこと。高卒でプロ、智弁で全国優勝という目標に掲げて入学した。中谷さんはプロで15年やられてドラ1で行っている方。自分としてはそういう方の下でやった方が、高卒プロに近づくんじゃないかと思って入学しました。名将と呼ばれた高嶋先生の下で半年くらいはやれて、そこから中谷さんの下でもやれた。智弁和歌山の転換機でもあったと思うし、強い智弁和歌山を今もつないでいっているのはすごいことだと思います」
「野球をしに行っていた」3年間
―野球以外で楽しかったことは
「野球漬けっすよ。一般生徒とは関わりないんですよ。クラスも別なので。中高一貫で小学校からある。僕たちは自転車なんですけど、基本的には電車で。教室も別で、他の生徒と関わることはない。(ヤクルトの西川)遥輝さん(が在籍していた)くらいにスポーツクラスができて、そこから(クラスが)別になりました」
―野球部は強豪。学校でも人気がありそう
「ないっすね。ないです。ないです。一般生の友達もいないので、連絡先も一般生の子は知らない。僕は野球部の11人しか連絡先を知らないです。だから、学校の友達は中学で止まっています(笑)。野球をしに行っていたので」
―学校行事とか
「文化祭は野球部3学年で1つ(の出し物を)出すので。そこに一般生も来るみたいな。でも、友達とかもいない。遊べるやつを体育館でやったりとか。体育祭とかも野球部は野球部で固まって。だから一般生との関わり合いは全くないです。ホンマに野球だけでした」
有言実行のプロ入り 日本ハムからドラフト4位指名
―高卒でプロ入りの目標をかなえた
「智弁和歌山を選んで良かったなと思いました。あの時の選択は間違っていなかった。親ともいろいろ相談して、目標のためにはどこに行くべきか、何をすべきか常に考えて。親からは、自分で決めたことは自分でケツ拭けよと言われていたので」
人間的な成長を実感 「中谷さんのおかげ」
―3年間で成長した
「それは本当、中谷さんのおかげですね。監督の指導、野球だけではなく人間的なところでも。技術に関しては上の年代に比べて、まだまだ未熟な部分もある。考え方とか準備するべきところは年齢に関係なく誰でもできる。準備の大切さとか、人間的なところを中谷さんに叩き込まれて、教えていただけた。そこが一番、智弁に行って良かったなと思います」