コンサドーレ
2024/12/09 23:05

《退任会見》監督のキャリアを終えるとはハッキリ言えない。そういう意味で私は5%残している

~最後に写真で振り返るミシャの7シーズン~

■監督退任会見(12月9日、札幌市内)

―(自ら)
 きのう、もう既に多くのコメントをした。あらためて私からコメントすることはないけど、繰り返しになるが7年間、札幌に関わる様々な方と共に過ごしてきた中で、皆さんの多大なるご支援をいただき、素晴らしい時間を過ごすことができた。クラブ、スタッフ、パートナー、メディア、サポーターのみなさんの支えがなければ7年という長い時間の仕事はできなかった。

 長い監督のキャリアの中でも最も素晴らしい時間を札幌で過ごすことができたことに心から感謝を申し上げたい。サッカーの世界は結果で評価される。今シーズンは良い結果が出せず、最後に降格。ふがいない結果に終わり、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。その結果をもってここを去らなければいけないことは心苦しい。この札幌で7年間、素晴らしい時間を過ごし、頑張ってきたことは私の心の中にずっと宝物のように残っていく。みなさんの日頃からのご支援に対して感謝しかありません。

―7シーズンの長い年月で最も印象に残った思い出は
 7年間という時間の中で、いろいろなことが起きた。ネガティブなこともポジティブこともあった。その中で私自身、一つの仕事は達成できたと思う。今シーズン降格してしまったことは非常に申し訳ない結果になった。しかし、私自身が札幌で何を求められて監督となったのか。それは札幌を攻撃的なチームにしてほしい、そして見る者を魅了するサッカーをするチームにしてほしい。そういったクラブの目標に対して、自分自身がそれをするのが仕事の一つだった。代名詞、あるいは人々が持つ印象をつくれたと思う。

 多くの日本のサッカーファンの中で、自分が応援するチームの次にどこのチームのサッカーを見たいかと聞いたら、札幌のサッカーを応援したいという人が多いと思う。それを日本のサッカー界に発信できたことは、私自身がやった仕事の一つとして満足している部分もある。

―サポーターのサッカーを見る水準も上がった。今後はどのように選手を鼓舞してほしいか
 サッカーの世界には勝ち負けがある。結果が非常に重視される、そういう競技だ。私が選手をしていた頃は、それほど大きなお金が動く時代ではなかった。サッカーを一つの文化として捉えていることが多かった。結果だけでなく、チームがどのようなスタイルで、どんな試合で勝ったか負けたかを楽しむ人がいた。

 私自身も勝利を目指す中で、ただ勝てばいいとは思っていない。自分のスタイルで、人々を魅了するサッカーで勝ちたい人間だ。クソみたいな試合をして勝つぐらいなら、良い試合をして負けた方がいい。それぐらいのこだわりを持っている。一人のプロの監督として間違っているかもしれない。でも私はそういうスタイルでやってきた人間だ。

 サポーターの皆さんは結果を求めると思う。良いときは、どこのサポーターも応援してくれる。結果が出ないときも応援してくれる札幌のサポーターは本当に素晴らしい。その姿勢を貫いてほしい。シーズンの長い間には必ず苦しいときがある。そういうときも応援してほしい。来シーズンもそういうサポーターの皆さんがいれば、必ず1シーズンでJ1に帰って来られる。そう願っている。

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―札幌の選手には将来的にどういうサッカー選手になってほしいか
 私が生きている世界は、ある意味で他の人とは違う世界観だ。私の世界観は少し現実離れしているかもしれない。私には自分で約束したことがある。契約書がなくても、それを必ず守る人間だ。

 例えば私の時代は、クラブの会長が「あなたの契約は何年で年俸はいくら」と話をすれば、契約書がなくても約束が守られた。今は契約書がないと守られないことがあるから、代理人や弁護士を付けて、契約に対して非常に多くの労力を要する。

 私が選手に常に求めたこと、選手を評価する基準は人間性だ。真面目さ、正直さ、可能であるならば困った人を必ず助けるマインド。私自身が人や選手を評価する基準は、まずそこだ。

 選手に対して私は常に言いたいことを直接、伝えてきた。良くないことにブラボーは言わない。ダメなモノはダメだ、と。選手は私の批判、指摘に対して、自分が良くなるために言ってくれているという思いを持ってもらえる関係性が大切だと思う。

 私自身も選手から学ぶことがあった。選手は自分の持っているサッカー観やアイディアがある。それを監督として学ぶことがあった。この仕事をしていると24時間、選手のために生きている。そういう思いでやってきた。選手にメンタル的な問題があれば、いつでもケアをする。そういう準備をしていたし、そのマインドで日々を過ごしていた。質問の答えは「素晴らしい選手であってほしい」だ。

―北海道という土地への思いは
 素晴らしい街だ。札幌に住んでいても、いろいろなところは見ていない。北海道のいろいろなところにも行けていない。ただ、北海道という大きな島は素晴らしい土地で、ここに暮らす人々も素晴らしい。海に囲まれているので、どこかへ行こうと思えば船や飛行機を使う手段を選ばないといけないので、そこに暮らす人は他の土地の人とは少し違う。

 それゆえに北海道という土地は、みなさんが非常に土地に対する思いと愛を持って暮らしているのかな。東京はいろいろな人が行き交う場所で、心が通じ合う関係性をつくるのは難しいかもしれない。北海道は少しゆったり暮らしているので、コミュニケーションを取る方も温かい方が多かった印象。

 シーズン中に北海道を見て回る時間はなかった。たくさん良いところがあると聞いているけどね。旅行で来ることがあれば、素晴らしい場所を訪ねてみたい。すごく良いスキー場もあると聞いている。北海道の素晴らしい場所を、今度は旅行で巡りたい。

―日本で19年間指揮を執った。日本サッカーのレベルをどう感じているか。さらにもっと上に行くためには
 日本サッカーは大きな大きな前進をしている。日本のサッカーをする環境、育成のつくり方は世界を見ても一番じゃないか。なぜかと言うと、以前は学校の部活の中でサッカーが行われていた。Jリーグができて、下部組織のアカデミーができて、その2つがうまく共存しながら選手たちが育っている。

 U-18のカテゴリーでプロになれなかった子どもたちも大学へ行って、4年間で成長できる。多くの選手がいろいろな可能性の中でカテゴリーを上げられるのは、世界中を見てもなかなかない。受け皿の大きさや多さが日本サッカーを大きく前進させているし、発展させている。育成の部分の組織づくりは素晴らしい。

 日本の指導者の方は非常に真面目で勤勉でインテリジェンスな方が多い。日本には外国人監督がたくさん来て、仕事をした。外国人の監督から学び、自分のものに発展させた指導者が多い。オフになれば海外へ出て新しいものを学ぶ。そういう姿勢を持っている方が現場に多い。その努力が日本サッカーを押し上げている。

 若い指導者も真面目で勤勉、常に向上心を持って取り組まれている。19年前に来た時は、日本の指導者は厳しい方が多かった。自分の言ったことだけを、きっちり選手にやらせることを強く求めていたと思う。ただ、サッカーは決められたことだけでは戦えない。なぜなら試合の中でそれ以外のことが起きるからだ。

 そのときに選手は自分で判断しないといけない。選手に必ず選択肢を与える、考える余力を与えることは戦術の中で非常に重要。そういったものを、この19年の中で日本の指導者が学び、選手に落とし込んだ。その中で選手が育ち、多くの選手が海外で活躍できるようになった。

 Jリーグのレベルは非常に高い。急成長しながら日本サッカーのレベルは上がっている。この先さらに強くなるためには外との競争が必要。アジアの中では一つ抜けた状態にある。Jリーグはヨーロッパと比較しても世界的に見ても7、8番目ぐらいのレベルだと思っている。

 さらに日本が強くなるためには、ヨーロッパの中に入って競争することが一つのアイデアだ。サウジアラビアはヨーロッパのチャンピオンズ・リーグに入るかもという噂があった。可能性があるなら日本もそこに入って行くことで、Jリーグのレベルアップにつながる。

 例えばJリーグチャンピオンになった神戸がヨーロッパのCLでバルサと戦うことがあれば、世の中の注目を集める。公式の場で戦う舞台が増えれば、その差を見ながら、埋める作業が行われる。真剣勝負の場で世界のトップレベルと戦う機会をいかに増やすか。それが日本が登っていくために必要なこと。今はまだ10時間以上飛ばないとヨーロッパには着かない。もしテクノロジーが発展して、ものすごく速い飛行機で4、5時間で行ければ、そういったことも頻繁に行われることがあるかもしれない。

 最近はミサイルがボンボン飛んでいることが多い。あれぐらい飛行機も速く飛べば良いけど、そこまではまだ上手くいかないでしょう。飛行機を速く飛ばすテクノロジーの開発を急いでほしいが、まだ世の中は相手の国を脅かすミサイル開発に着手している。それを私は良いと思わない。そういう世界では、なかなか生きたいと思えない。

―指導に注ぐ熱量の原動力は何だったか
 自分の職業に対する愛だ。私は17歳でプロサッカー選手になってから、引退してプロの監督になった今日まで、サッカーの世界で50年近く生きてきた。私にとってサッカーという職業は家族の次に大切だ。自分にとって大切なものや愛するものに対してのエネルギーは無限大だと思う。愛情と感情が尽きることはない。

―監督にとって(通訳の)杉浦コーチの存在とは
 最も重要な存在だ。言葉が通じない国で仕事をすれば、言葉を代弁してくれる人間が一番大事な存在になる。私の感情を選手に伝え、言いたいことを理解し行動してもらうのは、私を理解して代弁してくれる人がいなければ実現できない。私の仕事の中で一番大事な存在であったのは間違いない。2週間ほど前に(杉浦)大輔はプロライセンスを取得した。もう大輔は私の通訳でなく同僚だ。プロライセンスを取得したコーチという意味で、私の同僚であると言って良い。間違いなく彼は良い監督になるだろう。

―杉浦コーチへ。どのような指導者を目指すか
 監督から学んだこと、ともに経験してきたことは自分の中での大きな財産。ミシャがつくり上げたサッカーを継承して、発展させなければいけない。自分自身も覚悟を持って、監督という職業の世界に飛び込まなければいけない。どういうチャンスがあるか分からないけど、監督の背中を追いかけて、自分自身は何ができるか、どう発展させていくか。監督と過ごした時間が最も長い人間として、やらなければいけない。まだ監督は5%(監督業を続ける意思が)ある。みなさんに自分の思いを伝えることは、あまりしてこなかった。19シーズン…。監督と共に戦った広島の6シーズン、浦和の6シーズン、札幌での7シーズン。監督が日本で仕事をする限り、自分は最後まで支えようという思いで、きょうまで来ました。95%は引退されるということで、自分も95%は次に向かおうと思っている。もし5%があるなら、どうなるか分からない。ただ自分自身は、前に向かって行こうと思います。

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―選手は監督を父のような存在と言う
 ご存じないかもしれないが、私自身は選手にめちゃめちゃ優しいわけではない。グラウンドの上では非常に厳しいものを求める。時には選手に無茶ぶりもする。ミーティングでは選手に対して、ダイレクトにダメ出しすることもある。厳しい言葉で叱責することもある。

 メディアの前では、選手を名指しで批判することは一度もなかった。彼らのミスを指摘することを公の場で発信したこともない。選手と日々、活動する中で厳しいものを求めてきた。みなさんが総じて監督はパパのようだと発言されると、私は選手を大事にする温かいパパのイメージになると思うが、それとは少し違うイメージだ。

 過去の話になるが、私が指導した選手の中でも、難しいと感じる選手も何人かいた。例を挙げるならば、浦和に戻って来た原口だ。私が浦和に来た時はまだ二十歳ぐらい。気の強いヤンチャな選手だった。育成から上がってきた選手で特別な才能を持っていたのでチヤホヤされていた。恐らく、やりたい放題やってきた、という印象を受けた。

 彼はオン・ザ・ボールの選手。ボールをもらってドリブルをする。それしかしない選手だった。彼には多くのことを求めた。ボールがないところで、いかに動くかの重要性を求めてきた。ある試合で…、国立での柏レイソル戦だった。私は彼を前半20分で交代した。彼は憤慨していた。交代した後に水のボトルや、ユニホームをぶん投げて怒っていた。それを多くの方に見られていた。

 私は試合の後に、記者会見でそのことを聞かれると予想していた。そこで思い出したのはジョバンニ・トラパットーニ。彼がバイエルン・ミュンヘンの監督の時にユルゲン・クリンスマンを交代させた時に、ベンチの横にあった看板を蹴っ飛ばして、ぶっ壊してロッカールームに帰った出来事があった。

 その後の記者会見でドイツメディアが、「クリンスマンの振る舞いをどう思うか?」という質問を飛ばしていた。そのときのトラパットーニの答えは「私は見ていなかった」だ。見ていたけどね。私はそれを思い出して、「原口元気の行為を見たか?」と同じように聞かれて「見ていなかった」と言った。

 次節はアウェーのセレッソ戦。私は原口をメンバー外にした。その試合で我々は3対0で勝利した。原口選手はメンバー外だ。元気がいない試合で、チームは3対0でアウェーで勝った。次の試合もメンバー外を誰もが予想したし、本人もそう思っていた。彼は行為を反省してトレーニングも真面目にやった。前節でチームは彼なしで勝利したけど、私は逆に彼を次の試合に起用した。

 もし我々が3対0でセレッソに負けていたら、彼は今度は出られるだろうと思う。そうなれば私は、負け試合の後で彼を起用しなかった。交代させたことは彼をダメにしたいわけではないし、決して彼を嫌いなわけでもない。彼にとって何が大事なのかを分かってほしいということでの交代だった。

 それを彼自身も受け止めてくれたことで、私との信頼関係をつくることができた。話は長くなったが、選手との日々の活動の中で、私は常にダメなことはダメとはっきり言うタイプの人間。選手に良くなってほしいので言葉で表現する。それを彼らが理解して成功していく。

 家庭でも子どもに対して、父親はダメなモノはダメと言う。それは良い子、大人に成長してほしいと願うからだ。それと同じように、彼らにもダメなものはダメとダイレクトに言う。そうやって接してきたから、私のことをパパと呼ぶのだろう。信頼がなければただのダメ出しになる。信頼関係と愛情があるからこそ、ダメ出しができる。その関係性をつくった上で行わなければいけない。

―監督としてのキャリアを終えるのか。シーズンを終えて心境に変化は
 19シーズン日本で仕事をした。同じ国で監督としての仕事をするには非常に長い時間だった。そろそろ見ている方も飽きてきたと思う。監督のキャリアを終えるとはハッキリ言えない。どの監督も最後のキャリアを終える段階で余力を残している。その余力とは「このチームなら、もう一度監督として頑張りたい」と思えること。そういうチームからのオファーがあれば、やるというのが私の年齢になった指導者が思うこと。そういう意味で私は5%残していると発言した。

―(自ら)
 非常に長いプロサッカー人生の中で、これだけメディアの方と接することはなかった。メディアの方の発信がチーム、クラブの大きな宣伝になる。そうした記事や報道が、我々の札幌を強くする。成長する上で後押しになる。札幌のサッカーが多くのサポーターに愛されるのも、みなさんの後押しがあったからだ。7年間、皆さんと仕事ができたことを心から感謝している。キャリアの中でも、この7年間は素晴らしい時間だった。本当にありがとうございました。

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■写真で振り返るミシャの7シーズン

2018年1月12日、監督就任会見

 

2018年1月13日、就任初年度のキックオフイベント

 

2018年3月18日、札幌初勝利・ホーム長崎戦

 

2018年12月1日、古巣・広島とのホーム最終戦

 

2019年、新春インタビュー

 

2019年10月26日、ルヴァン杯決勝の川崎戦​​​​​

 

2019年12月7日、川崎とのホーム最終戦後のセレモニー

 

2020年7月22日、コロナ後ホーム初戦のFC東京戦

 

2020年10月24日、ホーム鹿島戦で監督J1通算200勝

 

2021年2月23日、大腿骨骨折からチーム合流

 

2021年3月12日、ホーム横浜M戦で野々村会長が退任

 

2023年3月12日、J1最多の通算525試合指揮記念セレモニー(達成は3月4日アウェー新潟戦)

 

2023年6月8日、選手たちのミニゲームにシューズも履かずに乱入

 

2023年10月18日、66歳の誕生日

 

2023年12月4日、感謝の集い

 

2024年1月16日、沖縄キャンプ初日

 

2024年12月8日、ラストマッチとなった柏とのホーム最終戦を終え、セレモニーであいさつ

 

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