《元赤黒戦士の現在地・和波智広後編》神戸移籍から札幌に復帰し2年連続主将 体調不良で離脱した07年を語る
期限付き移籍から札幌退団まで
かつて北海道コンサドーレ札幌で活躍したOBの現在と過去に迫る『元赤黒戦士の現在地』。2001年から07年まで在籍していた和波智広さん(44)の後編は、神戸への期限付き移籍からスタートした04年、キャプテンを務めた05、06年、そしてチームを途中離脱した07年シーズンの舞台裏に迫る。(以下、敬称略)
1年でのJ1復帰を目指したものの、シーズン途中での監督交代や、外国籍選手の総入れ替えなどでチームは大きく揺らぎ、終わってみれば12チーム中9位に沈んだ03年の札幌。クラブは多額の累積赤字を抱えていたこともあり、翌04年から育成型クラブへと方針転換。チームは外国籍選手ゼロ、プロ入りから間もない若手選手が大半を占める状況下で、シーズンのスタートを切った。
J1クラブ移籍を視野に
この年のキックオフイベントの際には、前年までと同様に「背番号20」を背負うことが発表された和波だったが、このオフはJ1クラブへの移籍も視野に入れていた。「選手として、居心地の良さを選ぶのか、自分自身を奮い立たせないといけない時なのか。中堅になってきて、もうひとつ上に行くには何が必要なのか、ということを考えましたね。札幌も苦しいシーズンで、力になってくれという話も常にしてもらっていたので、揺れるところでしたけど、あのときは自分自身を奮い立たせることを優先したときでした」。熟考の末、年明けに獲得オファーを出した神戸に期限付き移籍することを決断した。
自身にとって2年ぶりとなるJ1の舞台での活躍を誓ったが、キャンプ中に肉離れを負った影響もあり、神戸では公式戦での出場機会に恵まれなかった。そんな和波に復帰のオファーを出し続けたのが、若手主体のチームで苦しい戦いが続いていた札幌だった。「常に『戻って来てほしい』と声をかけ続けてくれた。実は一回断ったが、それでも熱心に話をしてくれたので『戻ります』と」。札幌復帰を決断した和波は、5月にチームに再合流すると、復帰初戦となった5月15日のアウェー横浜FC戦(1●2)を皮切りに、リーグ戦33試合にフル出場するなど、不動のレギュラーとして若いチームをけん引した。「戻ったからには何か力にならないと、形にしないと。それだけでしたね」。
柳下監督からキャプテンに任命され本音は
翌05年から背番号を7に変更した和波に、当時チームを率いていた柳下正明監督(64)はチームキャプテンという大役を任命した。「前の年の最終戦の頃から『来年やってほしい』と言われていて。『キャプテンというタイプじゃないんだけどな』と思いながらも、断るわけにもいかない。意図があってのことなので、引き受けました」と、就任秘話を明かす。
若い選手が言いたいことを言える環境に
05年、06年とキャプテンを務めたが、その2年間を「自分でも向いていないと思っているので、大変ですけど、やるからには若い選手の間に入って、言いたいことを言えるように、と。僕なら言いやすいと思うので、そういうのを吸収して、チームをいい循環にしたいという役割かな」と振り返る。
ムシャクシャして出た行為をとがめられ
選手としては05年にキャリアハイとなるリーグ戦38試合(全試合先発)出場(1得点)と、引き続きチームの主力として活躍したが、翌06年はチーム戦術の一環として、一列下がって左CBとして起用された影響もあってか、21試合(うち先発10試合)出場にとどまった。「(CB起用は)あまり気にしてなかったですけど、やっぱりうまく行っていないときにはそれなりの責任もありますし。一回(試合で)うまく行っていないとき、ハーフタイムにユニホームを手荒に扱ったか何かしたんですよね。それをヤンツーさんが見て『おまえがそうなってどうするんだ』って口論になって」と、当時を振り返る。
翌07年、札幌の監督には新たに三浦俊也監督(61)が就任。和波は3月3日の第1節アウェー京都戦(0●2)、同17日の第3節アウェー徳島戦(3〇0)と、2試合に先発出場するが、その徳島戦後に体調を崩して試合出場から遠ざかると、4月20日にはクラブから一時チームを離れて治療に専念することが発表された。
当時公表されなかった病名は…
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当時、詳細な病名は発表されなかったが、今回和波はその原因がオーバートレーニング症候群(※スポーツなどで生じた生理的疲労、精神的疲労が十分に回復しないまま積み重なり、常に疲労を感じる慢性疲労状態となること)だったことを明かした。「コンディションは上がらないし、パフォーマンスもなかなか上がってこない。クラブと相談して一回休もうか、となって。時間をもらってリハビリしました」。
症候群の名前もほとんど知られていない時代
現在では清水GK権田修一(35)や、元日本代表DF市川大祐(44)など、発症時や後日談として発症を公表する選手も増えてきたが、「当時はおそらく、あまり選手も言えなかったんじゃないかな。そういう選手もたくさんいたけど、この世界ではそういうのが当たり前で」と語るように、症候群の名前もほとんど知られていない時代だった。「今は子供たちにもあることだし、どのように対応すればいいかとかは進化していて。(当時は)遅れている部分があったので、サッカー界にとって重要な情報だと思います」。
27歳で引退を決意「葛藤はなかった」
結局07年は前述の2試合出場にとどまり、同年限りで札幌を契約満了となり退団した。他クラブから興味を示されたものの、翌08年3月に現役引退を表明した。「引退しようと思って、葛藤とかはなかったですね。自分のパフォーマンスが100%出せないから引退だな、という感じでした」。27歳という若さで一度ピッチに別れを告げたが、その6年後にサッカー人生の第2幕がスタートしたのは前編でお伝えしたとおりだ。
和波の札幌在籍時、ホームはもちろんアウェーの地でも常に掲出されていた「韋駄天 和波智広」という白地に黒文字のひときわ大きな横断幕があった。「湘南時代から引き継いでくれて。札幌ドームでも目立っていましたし、常にパワーをもらっていましたね」。札幌の歴史にその名を刻んだ韋駄天の新天地での活躍を願いたい。
■札幌サポーターへのメッセージ
僕のサッカー人生を振り返ると、あれだけ熱狂的に応援されて、僕たちの力になってくれて。(サポーターの)多い、少ないは関係なく力になっているのは事実ですけど、あれだけ熱狂した中、熱い中でサッカーをさせてもらったのは札幌しかない。非常に良い時期に札幌のためにみんなと一緒に戦えたことで、感謝の気持ちはすごく大きいです。今、この三重があれだけの声、あれだけの状況になってくれたら、とか、やっぱりそこ(当時の札幌)をベースに見るので、僕もプレーヤーとして札幌のためにプレーできたことに対して非常に感謝していますし、ありがたいと思います。あのとき一緒に戦えた方々と違う場所で会ったときに「あのとき見てましたよ」「一緒に応援していました」という人たちと話ができたらうれしい。もし札幌に行ったときには、そういう話をしてくれたら、と思います。
■プロフィール 和波 智広(わなみ・ともひろ) 1980年4月27日生まれ、三重県出身。暁高から99年に平塚(現・湘南)入りし、プロキャリアをスタートさせる。01年に同年からJ1に戦いの舞台を移した札幌に加入すると、シーズン途中からチームの主力に定着。翌年以降もコンスタントに試合に出場し、札幌の中心選手として活躍した。04年に神戸へ期限付き移籍するも、同年5月に札幌へ復帰。翌05年から2シーズンにわたってキャプテンを務めた。07年限りで札幌を退団し、翌年3月に現役引退を発表。13年に当時三重県2部に所属していた三重に加入して現役復帰を果たすと、19年までプレーしてチームをJFLまで押し上げた。札幌での7年間のJ1・J2リーグ戦通算成績は174試合7得点。Jリーグ通算226試合11得点。現役時代のポジションはMF。