コンサドーレ
2024/12/25 17:00

《元赤黒戦士の現在地・和波智広後編》神戸移籍から札幌に復帰し2年連続主将 体調不良で離脱した07年を語る

2002年5月12日、ナビスコ杯対柏戦の前半29分、和波(右)が先制ゴールを決める。左は曽田

期限付き移籍から札幌退団まで

 かつて北海道コンサドーレ札幌で活躍したOBの現在と過去に迫る『元赤黒戦士の現在地』。2001年から07年まで在籍していた和波智広さん(44)の後編は、神戸への期限付き移籍からスタートした04年、キャプテンを務めた05、06年、そしてチームを途中離脱した07年シーズンの舞台裏に迫る。(以下、敬称略)

 1年でのJ1復帰を目指したものの、シーズン途中での監督交代や、外国籍選手の総入れ替えなどでチームは大きく揺らぎ、終わってみれば12チーム中9位に沈んだ03年の札幌。クラブは多額の累積赤字を抱えていたこともあり、翌04年から育成型クラブへと方針転換。チームは外国籍選手ゼロ、プロ入りから間もない若手選手が大半を占める状況下で、シーズンのスタートを切った。

J1クラブ移籍を視野に

 この年のキックオフイベントの際には、前年までと同様に「背番号20」を背負うことが発表された和波だったが、このオフはJ1クラブへの移籍も視野に入れていた。「選手として、居心地の良さを選ぶのか、自分自身を奮い立たせないといけない時なのか。中堅になってきて、もうひとつ上に行くには何が必要なのか、ということを考えましたね。札幌も苦しいシーズンで、力になってくれという話も常にしてもらっていたので、揺れるところでしたけど、あのときは自分自身を奮い立たせることを優先したときでした」。熟考の末、年明けに獲得オファーを出した神戸に期限付き移籍することを決断した。

 自身にとって2年ぶりとなるJ1の舞台での活躍を誓ったが、キャンプ中に肉離れを負った影響もあり、神戸では公式戦での出場機会に恵まれなかった。そんな和波に復帰のオファーを出し続けたのが、若手主体のチームで苦しい戦いが続いていた札幌だった。「常に『戻って来てほしい』と声をかけ続けてくれた。実は一回断ったが、それでも熱心に話をしてくれたので『戻ります』と」。札幌復帰を決断した和波は、5月にチームに再合流すると、復帰初戦となった5月15日のアウェー横浜FC戦(1●2)を皮切りに、リーグ戦33試合にフル出場するなど、不動のレギュラーとして若いチームをけん引した。「戻ったからには何か力にならないと、形にしないと。それだけでしたね」。

2004年5月15日、対横浜FCの前半、復帰戦となった和波(右)がシュートを放つ

 

柳下監督からキャプテンに任命され本音は

 翌05年から背番号を7に変更した和波に、当時チームを率いていた柳下正明監督(64)はチームキャプテンという大役を任命した。「前の年の最終戦の頃から『来年やってほしい』と言われていて。『キャプテンというタイプじゃないんだけどな』と思いながらも、断るわけにもいかない。意図があってのことなので、引き受けました」と、就任秘話を明かす。

2005年3月5日のヴァンフォーレ甲府戦、キャプテンマークをつけてプレーする和波

 

若い選手が言いたいことを言える環境に

 05年、06年とキャプテンを務めたが、その2年間を「自分でも向いていないと思っているので、大変ですけど、やるからには若い選手の間に入って、言いたいことを言えるように、と。僕なら言いやすいと思うので、そういうのを吸収して、チームをいい循環にしたいという役割かな」と振り返る。

ムシャクシャして出た行為をとがめられ

 選手としては05年にキャリアハイとなるリーグ戦38試合(全試合先発)出場(1得点)と、引き続きチームの主力として活躍したが、翌06年はチーム戦術の一環として、一列下がって左CBとして起用された影響もあってか、21試合(うち先発10試合)出場にとどまった。「(CB起用は)あまり気にしてなかったですけど、やっぱりうまく行っていないときにはそれなりの責任もありますし。一回(試合で)うまく行っていないとき、ハーフタイムにユニホームを手荒に扱ったか何かしたんですよね。それをヤンツーさんが見て『おまえがそうなってどうするんだ』って口論になって」と、当時を振り返る。

 翌07年、札幌の監督には新たに三浦俊也監督(61)が就任。和波は3月3日の第1節アウェー京都戦(0●2)、同17日の第3節アウェー徳島戦(3〇0)と、2試合に先発出場するが、その徳島戦後に体調を崩して試合出場から遠ざかると、4月20日にはクラブから一時チームを離れて治療に専念することが発表された。

2006年3月25日の横浜FC戦で三浦知良(左)と競り合う和波

 

当時公表されなかった病名は…

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