《ミシャ・ラストインタビュー》仕事に幸せを感じることができれば自然とエネルギーは湧いてくる
札幌を躍進させた名将の最後の言葉
道新スポーツデジタルの年末特別企画として、北海道コンサドーレ札幌のミハイロ・ペトロヴィッチ監督(67)に行った「ラストインタビュー」をお届けする。札幌に攻撃的なミシャサッカーを植え付け、就任した2018年にクラブ最高位のJ1リーグ4位、翌19年にはルヴァン杯準優勝に導いた。札幌を躍進させて新たな景色も見させてくれたが、今シーズンは惜しくも19位に低迷してJ2降格。今季限りで7年間に渡る長期政権にピリオドを打った。今月9日の退任会見では語られなかったエピソード、自身が選んだベストゲームも紹介する。
―監督にとって札幌での7年間はどのような時間だったか
素晴らしい7年間だった。残念ながら7年目の今年は、非常に厳しいシーズンを送らなければいけない状況にはなってしまったが、ただ札幌、北海道という素晴らしい土地で暮らして、そこに住むすごく親切で温かい人たちと共に暮らすことができたことは、非常に幸せだったと思っている。
―札幌では自身のキャリアで最長となる7年間指揮を執った
7年間、一つのクラブで仕事をするというのは、サッカーの監督としては非常に長い時間だと思う。監督というのはある意味、来年がどうなるか分からない仕事だが、それだけの時間を一つのクラブで仕事ができたのは、支えてくれたスタッフの方々、クラブの社員の方々、メディアの方々、そして応援してくれる方々のおかげ。そうした方々の支えなしには、決してこの長い7シーズン、良い仕事をすることはできなかったと思う。改めてそのことを感謝したい。
―北海道での生活はどのようなものだったか
札幌、北海道は、私にとって本当に素晴らしい場所だった。私自身、日本の3都市で暮らしてきたが、この札幌、北海道という土地は、私の一生の中でも、おそらくずっと心に残る、思い出に残る土地であることは間違いない。
―札幌のサポーターは監督にとってどのような存在だったか
この記事は有料会員限定です。
登録すると続きをお読みいただけます。
私にとって札幌のサポーターというのは特別だ。なぜなら札幌のサポーターは、良い時ばかりでなく、うまくいかない時でも常に共に戦ってくれる。そういう存在だからだ。
特に今シーズンは、我々がなかなかうまくいかない中で、彼らにとっても非常に不満の残るシーズンだったと思うが、本当に辛い時、本当に苦しい時に、我々を常に後押ししてくれる存在であるのが、我々のサポーターだと思っている。
彼らは共に戦う戦友だし、仲間だと思っている。私にとって非常に特別な存在で、彼らも我々に特別な思いを持っていると思うが、私自身も彼らに対して特別な思いを持っている。
―監督は常にエネルギッシュだったが、その原動力は
私自身は、自分の仕事というのをすごく愛しているし、自分の仕事ができることに幸せを感じている。それを感じられれば、自然とそれに対するエネルギーというのは湧いてくるものだ。
そのことがまず第一で、そしてあとはうちのチームの選手たちであったり、あるいは一緒に仕事をしてくれる人たち、そういう方々と良い関係性をつくれるかどうかだ。
―攻撃的なサッカーを植え付けることができたことを監督自身はどのように考えているか
その答えは野々村さん(元会長、現Jリーグチェアマン)だ。多くの日本のクラブもそうだし、以前の日本代表もそうだが、例えばあるクラブが「攻撃的なチームをつくりたい」「攻撃的なサッカーで今シーズンを戦いたい」と言いながら、守備的なサッカーを志向する監督を連れてきたら、守備的な戦い方になる。
森保監督より以前に日本代表監督をしていたハリルホジッチさんを私は昔からよく知っているが、彼は守ってカウンター、という守備的なサッカーをする監督だ。ただ日本には攻撃的なサッカーを求めている人が多い中で、守備的な監督さんを連れて来て、攻撃的なサッカーをしてくださいと言っても、その話にはちょっと無理がある。求められているタスクに、あるいは求めているクラブのフィロソフィーに合った人を連れて来る方がいいのではないかと思っている。
だから野々村さんは、攻撃的なサッカーをしたい、そういうチームをつくりたいということで私を呼んだ。だから我々は攻撃的な戦い方をした。そういうことだ。だからその答えは野々村さんだ。
私は自分のキャリアを通して、ずっと攻撃的なサッカーをどういう風にやるかということを、常に考えて仕事をしてきた人間だから、私に「守備的なチームをつくってください」というのは、それは全く違うオーダーだ。
そういう意味では野々村さんが、この札幌というクラブを攻撃的なチームにしたいという、その示した方向性に従って私が来た。だからこのクラブはこの7年間、攻撃的なサッカーをするチームになった。
野々村さんは元選手として、おそらく初めてJリーグクラブの社長になった人だと思うが、サッカーというものをよく理解されている方が社長というポジションに入ってサッカーをしっかり分かった人の視点で経営されていたと思う。
そういう中で、自分のクラブを攻撃的なチームにしたいという思いで、私にオファーしてきた。もし野々村さんが私に「守備的なサッカーをしてくれ」と言ったら、「それは俺にはできない」と言っていた。そういうことだ。それぞれのJリーグクラブの方向性に従って、どういう監督を連れて来るか、ということでなければいけない。
昔、三浦俊也さんが監督をしていたが、彼はイタリアのアリゴ・サッキ監督の4-4-2の守備的なサッカーを代名詞として監督をされていたと思うが、私も「ミシャ」「攻撃サッカー」という代名詞を背負って仕事をしているわけだ。そういう意味でも、それぞれの監督さんというのは、それぞれの自分のスタイルとサッカーモデルを持って仕事をされていると思うので、それに見合った監督を連れて来るというのが、通常のあるべき話だ。
野々村さんはやはり特別な方だ。私はたくさんのスポーツダイレクター、プレジデント(社長)と話をしてきたが、野々村さんは非常に熱い思いを持って、このクラブを変えようとしていた。
見ている人が面白くないサッカーには魅力がないということを、彼はよく理解していたと思う。だからこそミシャにオファーをしてきて、攻撃的なチームをつくってくれと。それこそ攻撃的なチームをつくる中で、J2に落ちてもいいから、とにかくそういうチームをつくってくれ、というのが、彼の熱い思いだった。私はそんな話をするプレジデントに会ったことはない。彼はそれぐらいの思いを持っていた。サッカーというのはやはり中身が大事だということを彼は理解していたと思う。私もそういう思いに動かされてここに来た。それが経緯だ。
―この7年間のベストゲームは
皆さんにとっても、そして私にとってもやはり忘れがたいのは(19年に川崎と戦った)ルヴァン杯のファイナルだ。あの試合というのは、やはり特別な試合だったと思っている。
超満員のスタジアムで、お互いのサポーターの思いがぶつかり合った試合だったと思うし、喜びがあって、涙があって、いろいろな思いが交錯し合うような本当にたくさんの人たちのエモーショナルなものがあった。そんな試合だったと思う。
サポーターの応援は忘れることができないし、我々が敗れて多くの方が涙を流した試合だったと思うが、サッカーの魅力が全て詰まった、本当に素晴らしい瞬間、空間だったと思う。あれはやはり特別だった。