【青春の1ページ・特別編】~高校時代を振り返る~ 木田優夫GM代行
第10回は特別編でお届け 得意の絵も披露!
どんなプロスポーツ選手にも、色あせることのない〝青春の思い出〟がある。道新スポーツデジタルでは、アスリートの高校時代にスポットを当て「青春の1ページ」と題して連載します。節目の第10回は、日大明誠高(山梨)出身の木田優夫GM代行(56)が登場する。ドラフト1位でプロの世界に飛び込み、メジャーリーグ挑戦、NPB復帰、独立リーグと46歳まで夢を追い続けた。数々の栄光と挫折を味わったGM代行が、若き日の記憶を語り、印象的な思い出を1枚の絵にして振り返ってくれました。
※プレゼント告知あり
通学には1時間超 朝練もあり
ー1日のスケジュールは
「朝6時半ぐらいに家を出て、1時間10分ぐらいかけて学校へ行ってました。下級生の時は朝の時間にグラウンド整備。途中から監督に言われて、必ず朝練をするようになりました。授業を受けて、放課後は普通に練習。学校を19時半ぐらいに出て21時前には家に着いてました」
ー授業は何時まで
「あまり覚えてないけど、6時間目まであったような…」
授業中に体を休めることも…
ー得意科目は
「強いて挙げるなら、現代国語です」
ー成績は良かった
「学年に550人ぐらいいて、入試は2番か3番でした。ただ、野球をやっていて授業では寝てることが多かった(苦笑)。総合点や教科ごとに成績上位者が張り出されていて、1年生の時は名前が載っていたけど、その後はあまり張り出されることがなかったです」
ー苦手科目は
「数学かな?」
常に最適解を求めてトレーニング
ー一番キツかった練習は
「雨が降った時ですね。雨が降ると、柔道場で補強練習をします。ほふく前進や受け身、前転や後転とか体操系のメニューが入るのが、キツかったというよりは好きじゃなかった。だから雨の日は、あまり好きじゃなかったです」
ー毎日必ずやっていたことやルーティンは
「必ずやるのは下半身強化や肩のメニュー。毎日やるメニューはありましたが、それはルーティンではなく、その時に必要なことをしていただけです。高校時代だけではなく、現役時代もずっとそうしていて、アップやクールダウンでも、その日の体調によってやるべきことが変わるので、ルーティンはありませんでした」
夜通し身動きが取れなかった修学旅行での寝台特急
ーイベントや行事の思い出は
この記事は有料会員限定です。
登録すると続きをお読みいただけます。
「修学旅行は九州1周。飛行機で行く予定でしたが、その年の夏に御巣鷹山の日航機墜落事故があり、飛行機移動に反対する意見も多く、何班かに分かれることになりました。僕たちのグループは寝台特急で東京から博多まで行って、そこからバスで鹿児島まで移動するスケジュールでした。その寝台特急が2段ベッドになっていて、上が僕、下が2年生の時の担任だった野球部の監督。夜通し身動きが取れなくて、つまらなかったです」
ー休みの日は何をして過ごした
「練習休みの日がないんです。夏の大会に負けた後に1日か2日。あとは大みそか、元日、2日だけが休み。ずっと練習でした」
野球に懸けていた高校生活 引退後もグラウンドへ
ー高校野球を引退した時の解放感は大きかったか
「解放感なんかないですよ。負けた悔しさと、負けたからこそ次に頑張らなきゃっていう気持ちです。負けて1日、2日たって新チームになってからも、自分の練習と新チームの手伝いでずっとグラウンドに出ていました」
キツかった伝統メニュー〝山ラン〟
ーチームの伝統メニューは
「ありますね。正式名称は〝山ラン〟です。山の中にある学校なので敷地内に坂があった。グラウンドから体育館の方に走り出して、1周何分とタイムを設定して、何周かするのが〝山ラン〟と呼ばれる伝統メニュー。1周2分ぐらいのコースを、設定されたタイム以内に入らないとダメ。しょっちゅうやってました」
ー走るメニューは苦にしなかったか
「いやいや。苦しい、キツイですよ(笑)。タイムがあるし、起伏があるし」
練習が終わった後にもダッシュ!?
ー通学中の思い出深い出来事は
「当時は行くのも帰るのも、1時間に1本か2本しか電車がなかった。その呼び名は19時の便は『7時電車』。20時台は2本あったので『8早と8遅』。それでどの電車に乗るのか、みんなが分かる。乗り遅れてしまうと、時間によっては1時間近く待たないといけない。監督からはどんなに練習が遅くなっても『8遅には乗れ』と言われてました。電車に乗り遅れないようにするのが、通学で大変だった思い出です。油断していると、練習が終わった後にも(駅まで)ダッシュすることがありました」
「JAPAN」ならぬ「NIHON」のユニホーム
ー描いた絵についてのエピソードを
「本当はオリンピックに行ってJAPANのユニホームを着たかったけど、ドラフトで指名されて、いろいろと考えました。プロ入りの決め手になったのは兄貴の言葉。『JAPANのユニホームを着たいって言ってるけど、おまえは3年間、NIHONって書かれたユニホームを着てただろ』って。その一言でジャイアンツ入りを決めました。当時はオリンピックにプロが出なかった。プロ入りしたら世界大会がなかったので、その時点で諦めないといけなかった。日米野球や日韓野球に選ばれて出たことがあるけど、本当の世界大会には1回も選ばれなかったので、JAPANのユニホームは最後まで着られませんでした。でもNIHONのユニホームを着られたので、大丈夫です」
広がり、つながっていく夢
ー最後に球児たちへメッセージを
「小学生、中学生、高校生の最初の夢は甲子園なのかもしれない。ただ、人によっては甲子園よりもプロ野球選手、メジャーリーガーになりたいとか、いろいろな夢を抱いていると思うけど、夢は広がっていく。僕も甲子園へ本当に行きたかったけど、県大会決勝で負けて行けなかった。その夢はかなわなかったけど、野球を続けてプロ野球選手になるという夢はかなった。そして、そこから、アメリカに行く、メジャーリーガーになるという夢に広がった。成績的に成功はしなかったけど、メジャーリーガーに交じって野球をすることができた。さらに、次は40歳まで現役を続けたいと広がり、NPBでは44歳まで、独立リーグを入れたら46歳まで続けられた。今持っている夢も、つながったり広がったりしていくと思います。1度や2度、ひょっとしたらそれ以上に挫折もあるかもしれませんが、諦めずに、野球を楽しんで、続けていってほしいと思います」
■〝木田画伯〟の直筆イラスト色紙をプレゼント!