鶴岡 感謝の引退会見「ダルビッシュがいなければ、ここまでできなかった」
今季まで日本ハムでプレーした鶴岡慎也捕手(40)の引退会見が13日、札幌ドームで行われた。現役にこだわって最後まで戦い抜き、涙を浮かべながら19年間のプロ生活に別れを告げた。戦友のダルビッシュ有投手(35、パドレス)には引退報告後、ねぎらいの言葉を掛けられ、深く感謝。今後は「生涯野球人」を掲げ、球団やファンに恩返ししていく意向を表した。
必要とされる限りは、ボロボロになってもプレーする。かっこ悪くてもいい。鶴岡は自らの美学を貫き、現役引退を決断した。時折、声を詰まらせたが、後ろ髪引かれることはない。「自分との約束の中で、プレーすること(機会)がなくなる、需要がなくなるまでやると決めていた。ここまでやれたので本当に納得しています」
入団テストを受験し、2002年ドラフト8巡目で入団。エリートコースではなかったが、持ち前のガッツではい上がった。鹿児島の両親と北海道にいる妻、3人の子供が心の支えで「僕は、体は小さいですけどケガをしなかった。40歳まで向上心を持ち、絶対に負けないという気持ちでやれた」と胸を張った。
捕手としての転機は、球界を代表するエースとなったダルビッシュとのコンビ結成だった。遠慮なく突きつけてくる厳しい要求に応え、必死にもり立てた。引退の意思をLINEで伝えると、温かい言葉が返ってきたそうで「会話の内容は2人だけの秘密。すべてが報われたような気持ちになりました。素晴らしい人間になっていました」と冗談交じりに明かし、報道陣を笑わせた。
ダルビッシュとの共同作業は、難度の高い任務だった。一流投手の中でも球威、変化球の精度、落差は桁違いだった。「苦労したことは変化球を捕ること。145キロのフォークを投げてくるし、すっげー曲がるスライダーのワンバウンドを投げてくる」
バックネットまで距離のある札幌ドームで後逸すると、二塁走者が生還する恐れがある。そのため、警戒心を緩めず、体を張って止めるくせが付いた。妥協を許さない後輩との対話を思い返し「ダルビッシュ投手がいなければ、僕はここまでできなかった。本当に感謝しています」と実感を込めた。
会見のラストには、サプライズで同学年の田中SAと、後輩の中島が登場し、花束を受け取った。穏やかな表情を浮かべた鶴岡は、応援してくれたファンに向けて一つの誓いを立てた。「野球の勉強を続けることは、生涯変わらない。これからも野球とファイターズに関わっていける仕事ができれば、と強く思います」。野球人生の第二幕は、ここから始まる。
■プロフィール
鶴岡 慎也 (つるおか・しんや)1981年4月11日生まれ、40歳。鹿児島県出身。捕手として樟南高―三菱重工横浜硬式野球クラブで活躍し、2002年ドラフト会議で日本ハムから8巡目指名を受け入団。4年目の06年から1軍に定着。同年5月13日・横浜戦(札幌ドーム)で初本塁打をマーク。09年にゴールデングラブ賞、12年にベストナインに輝く。14~17年はFAでソフトバンクに移籍し、18年に古巣に復帰。19年からバッテリーコーチを兼任した。通算成績は19年間で1220試合に出場。646安打、20本塁打、267打点、打率・238。右投げ右打ち。
■鶴岡TALK
―引退を決めた心境は
「選手としてやりたい、まだまだやれると思っていたが、いざ辞めると決めたら、なんだか、すがすがしい気持ちです」
―現役生活で最も印象に残った出来事は
「06年の日本一。1軍に定着したのが初めてで、がむしゃらに1試合、ワンプレーに命を懸けてやっていました。その結果、歴史を動かす年になった。ファイターズが北海道に根付く1ページに。そこに立ち会えた幸せはこれからの人生に生かしていきたい」
―捕手のこだわりは
「準備を怠らないこと。体にかける時間、データを頭に入れる時間とか、グラウンド外の時間を誰よりも長く、とってきた。それが40歳までできた理由かなと思います」
―北海道のファンはどんな存在だったか
「僕自身が北海道の皆さんに育てていただいた。これから少しでも、みなさんに恩返ししていけたらなと思います」
―将来的に指導者を目指す気持ちはあるか
「もちろん、いつかはユニホームを着たいという思いはあります」