【10年前の忘れもの】①日下部憲和(72) 準V以来の選抜甲子園に挑む東海大札幌高へ必勝エール
監督と部長で8度の甲子園を経験した日下部憲和さん=撮影・西川薫
校名変更後は初の甲子園
東海大札幌高が北海道代表として3月18日に阪神甲子園球場で開幕する選抜高校野球に10年ぶりに出場する。前回出場の2015年に準優勝を遂げた同校は、16年の校名変更後は初の出場となる。開幕まであと1カ月となり、道新スポーツデジタルでは「10年前の忘れもの」と題して企画をスタート。歴代のOBから後輩への必勝エールを取材し、不定期連載をお届けする。第1回は15年の準優勝時に部長を務め、現在は大学の東海大札幌で顧問を務める日下部憲和さん(72)。1977年1月から2018年春まで系列の中学、高校で指導し、同校11度の甲子園出場のうち、監督と部長で8度を経験した。今回はエールをもらいながら、春と夏で一つずつ思い出に残る試合を振り返ってもらい、そこにまつわる秘話も語ってもらった。(学年は当時、敬称略)
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監督と部長で8度の出場経験
故郷・長崎から札幌へ来て48年。校名変更前の東海大四時代から同校の歴史はほぼ知り尽くしている。年配のOBからは「ヨロシク、哀愁」の締め言葉で知られている名物指導者だ。18年春の高等部退職後は、高校より50メートルほど高台にある系列の大学、東海大札幌の野球部で後進の指導にあたっている。10年ぶりの甲子園出場には、「長かった。準優勝から、中々かかったかな」と一言。そして自らの経験から「夏と比べてね、バタバタ感はないですよね。早め早めにいろんなことを準備できる。やっぱり上位を目指してほしい。決勝まで5試合になると思うけど、一戦必勝で、できれば頂点に立ってもらいたい」。あの時、あと1勝で届かなかった全国制覇に期待を寄せている。
監督と部長で8度の甲子園を経験した日下部憲和さん
監督初陣での甲子園初勝利に男泣き
思い出に残る夏の試合は、春夏通じて6度目の挑戦で甲子園初勝利となった1986年の1回戦だ。対戦相手は当時、野球王国と言われた四国・香川の尽誠学園だった。相手のエースは伊良部秀輝投手(2年)。1点ビハインドで迎えた九回裏に先頭の5番・大村巌(2年)が値千金の同点ソロアーチ。〝伊良部撃ち〟に成功し、サヨナラ勝利を引き寄せた。
82年までの5年間は前任の三好泰宏監督の右腕として4度の甲子園を経験し、満を持しての監督初陣だった。試合後のお立ち台では「僕にとってより、学校にとっての初勝利だったのでね」と、男泣きした。
1986年8月12日、東海大四の逆転サヨナラ勝利につながる大村の同点弾が道新スポーツの一面を飾った
打撃と足で伊良部攻略
当時の事は、何を見ないでもスラスラと出てくる。「苦しい展開で、九回表を終わった時点で1点差で負けていた。5-6で。ところが起死回生の大村巌の同点ホームランが出て。大村はまだ2年生。3年生に森本、稲村の3人でクリーンアップを打っていた。一番飛ばすのは大村だったけど、その2人も非常に良い打撃をするし、日高っていうむちゃくちゃ足の速いのがいた。1番打者で、伊良部をかき回したんです。伊良部から4安打。2番バッターのキャプテン柳谷の足も速かった」。最後は日高がサヨナラの二塁内野安打を放って劇的勝利をもぎ取ることに成功した。
衝撃だった中学生の大村厳と盛田幸妃
その大村との出会いは甲子園初勝利から2年前まで遡る。翌春に体育科を新設することが決まっていて、日下部顧問は中体連の地方大会を視察しに稚内へ出向いた。そこで1人の中学生の打撃に衝撃を受けた。「ホームランを打ったんです。軟式で。当時は今ほど飛ばないボールで。びっくりしました。全道大会には鹿部からも、函館有斗(現函大有斗)に行った盛田幸妃も出ていた。盛田くんも欲しかったけど、キャプテンがうちに来てくれました」。入学後は大村1人だけが上級生の中に入って練習し、その春からすぐにベンチ入りした。
1986年8月11日、夏の甲子園1回戦で九回先頭の東海大四・大村(右)が尽誠学園の伊良部(左手前)から同点のソロ本塁打を放つ
ロッテで再会したかつてのライバル
初勝利した甲子園には後日談があるという。翌年は南大会2回戦で駒大岩見沢に惜敗したが、3年生となった大村が秋のドラフトでロッテに6位指名された。当時は、「付属で優秀な子は東海大学へ進学していた。僕も卒業生だし。でも大村は『プロに行きたい』の一点張りで。(当時ロッテ監督の)有藤さんも札幌まで来たんですけど、僕は立場上、会えない」。さらに「それで(ロッテ)1位が伊良部ですよ。前の年に甲子園で戦った。甲子園2回戦は前橋商業に負けたけど、五十嵐というエースが後に社会人を経由してロッテに入ります」。甲子園で戦った選手たちと同じ道を進むこととなり、不思議な縁を感じたという。
2015年準優勝 絶対エース大沢は4完投2完封 裏では緊急事態も
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春の一番思い出に残る試合は、やはり甲子園最高成績の2015年準優勝時の決勝だ。北海道勢52年ぶりの決勝進出で、当時は部長として帯同していたが、周囲の初優勝への期待はひしひしと感じていた。「あの時の選抜は、得点力がちょっと乏しかった。大沢中心の守りで勝ち抜いた結果ですよね」。絶対エース・大沢志意也(2年)のチェンジアップが冴え渡り、全5試合で4完投。そのうち1試合で完封した。
「どの試合も接戦、接戦で。初戦の豊橋工が21世紀枠だけど、良い投手だったのは分かっていた。次が松山東。ここも21世紀枠で出てきたチームだけど、先に点を取られてしまった。次が健大高崎。大沢がこの3試合で完投が2つ。でも本人に聞いたら、(疲労は)何ともないと。(トーナメントの)一番端っこの山だったから7日間で5試合を戦った」
決勝戦の相手は福井県勢の初優勝が懸かっていた敦賀気比。先発は後に日本ハム入りした平沼翔太投手(3年)だ。「むゃくちゃ速いとは思わなかったけど、投球術は素晴らしかった。こっちも全試合通じて得点力が少なかった。4番の斎藤が九州の練習試合で負傷してメンバー変更していた中で、とにかくそれまでは守り切った」と目を細めた。
2015年4月1日、選抜高校野球決勝を戦った東海大四と敦賀気比のナインが記念の写真撮影
前年秋に北見工戦で起きたミラクル
甲子園快進撃の出発点は、前年秋の全道3回戦だった。絶体絶命の状況から生き返った北見工との激戦だ。後攻で九回裏2死二塁ながら1点ビハインド。あと1アウトでゲームセットの場面で、代打・左近太勢(2年)の打球は平凡な遊ゴロ。誰もが負けを覚悟した瞬間、相手の遊撃手が一塁へ暴投。二走の小川孝平捕手(2年)が一気に本塁生還。続く2死三塁で冨田勇輝遊撃手(2年)のサヨナラ安打で、辛くも勝利を拾った。
2014年10月9日、秋季全道高校野球準々決勝で北見工からサヨナラ打を放った東海大四・冨田(中央)がナインから祝福を受ける
準決は中継ぎだった伊藤大海を攻略
「あの試合が分岐点だね。優勝するか、しないかの。準決勝は駒苫とやっているけど、伊藤大海(日本ハム)が先発しなかったんですよ。リリーフで出てきたけど、うちに流れがあったんで、伊藤大海からも点を取っている」。その年の春に1年生エースとして選抜甲子園で完封デビューしていた伊藤を打ち崩し、さらに波に乗っていった。
2014年10月11日、駒苫を七回コールドで下して決勝進出決め、スタンドの祝福に応える東海大四ナイン
決勝に進出したことで、まさかの…
実は選抜甲子園の快進撃の裏で、ある緊急事態も起きていた。3月31日の準決勝。浦和学院戦に勝利した後、ベンチ裏のお立ち台へ上がってくるスロープでのことだった。チームの最後列を歩いていた日下部顧問を、日本高野連の役員が呼び止めた。内容は翌日の決勝戦から帰道までのレクチャーだったが、その最後、「先生、部長として今回入っておられるけど、明日4月1日当日の身分はどうでしょうか?」。
実は3月31日付で定年の予定だった。「4月1日以降は数年間、非常勤講師です」と伝えたところ、「そしたら先生、あしたベンチに入れませんよ」と衝撃の言葉が返ってきた。思いもしなかったことだったが、助け舟もあった。「学校側と話し合って、1年間でも1カ月でもいいから定年は延長してもらってください」。すぐに学校側に掛け合い、1週間の定年延期が決定。翌日、何事もなかったように、決勝のベンチには日下部部長の姿があった。
今春も高等部からは5人の有望選手をあずかる。昨秋は札幌6大学1部で屈辱の5位。逆襲への準備に今後も忙しく動き回る。
2015年4月1日、選抜高校野球決勝で優勝した敦賀気比に敗れた東海大四。試合後はスタンドの応援団にあいさつして引き揚げた。中央右が日下部部長(当時)
■プロフィール 日下部 憲和(くさかべ・のりかず) 1952年6月7日、長崎県出身。現役時代は投手。佐世保南高から神奈川の東海大に進学した。卒業後、東海大相模高の故・原貢監督から「北海道の高校で勉強してこい」と、1977年1月に東海大四(現・東海大札幌高)にコーチとして赴任。1986年に監督として挑んだ初めての夏の甲子園では、1回戦で故・伊良部秀輝投手擁する尽誠学園に7-6でサヨナラ勝ち。同校に甲子園初勝利をもたらした。88年から98年まで中等部で指導。99年に高等部に復帰すると、2015年春には部長として春夏通じて同校初の甲子園準優勝を果たすなど監督・部長で8度の甲子園を経験。家族は妻と2女。
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