山県秀 プロ初安打 母・眞美子さんが「私は、報われたな」と思った出来事とは
「8番・二塁」でスタメン出場した山県=撮影・松本奈央
■パ・リーグ4回戦 日本ハム1―2オリックス(4月18日、京セラドーム大阪)
異色の秀才プレーヤーが過ごした少年時代
日本ハムのドラフト5位ルーキー・山縣秀内野手(22)がプロ初安打を放った。
野球推薦を受けずに、国内屈指の難関校・早大学院高に進学した秀才。将来の起業を視野に、早大では商学部を卒業した。小学校2年から大学2年まで続けたピアノの腕も見事で、ショパンの幻想即興曲を弾きこなす。プロ野球界でも異彩を放つ男は、どんな少年時代を過ごしてきたのか―。母・眞美子さんから話を聞いた。
忘れられない初練習
山縣が野球を始めたのは4歳の時。初めての練習に向かった日のことを、眞美子さんは今も鮮明に覚えている。
「土曜日だったんですけど、最初に1時間ぐらいね、と声をかけたんです。そしたら、『きょうは一日中やる!』と言い返されて(笑)。夢中でしたね。まだ幼稚園の年少だったので、最初は週1回からと思っていたんですけど、『あしたも行く!』と言われて、日曜日も行きました。そしたら、やっぱり月曜日に体調を崩して、火曜、水曜と幼稚園を休んで。それでも、土日にはまた野球に行く。ということを繰り返していましたね(笑)」と懐かしそうに振り返った。
六回1死一塁、オリックス・頓宮を5-4-3の併殺に仕留める山県
ふやけた左手 家では常にグローブを装着
興味があるものには、とことん没頭し、人並み外れた集中力を発揮する子どもだった。
「家では、ずっとグローブを着けて壁当てをしていました。当時はもちろん革のグローブではなくて、(子ども用の)ビニールのやつだったんですけど、ずっと遊んでいました。なので、いつも(グローブをする)左手がふやけていましたね」。年齢を重ねると、野球と並行して、ピアノ、勉強にも打ち込み、ぐんぐんと実力を伸ばしていった。
徹底していた教育方針 「自分のことは自分で」
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山縣家の方針は、「途中で投げ出さず、自分のことは自分で決めて、自分でやること」。特に野球に関しては、幼い頃から徹底されていた。
「4歳の時から、ユニホームは自分で着るように言っていました。でも、アンダーソックス、ストッキングを履いて、折り曲げて、というのが難しくて、できなくて泣いていましたね。私は見ているのがつらかったんですけど、主人からも手は出さないように言われていたので、我慢しました。朝の練習に間に合うように、普通よりも1時間前に起きて、泣きながら頑張って着ていました」。泥だらけのユニホームの洗濯も、もちろん山縣自身の仕事だった。
二回1死、遊撃への内野安打で、一塁へ走る山県=撮影・井上浩明
東京・国分寺リトルで芽生えた仲間意識
東京・国分寺リトルに入団したが、試合にはなかなか勝てなかった。山縣は当時から目立っていたものの、自身の遊撃からの強い送球を捕れるチームメートがいなかったため、一塁手を務めることもあった。それでも、周りに文句を言うことは一切なく、当時の仲間たちとは今でも仲良しだ。
強豪を撃破し、関東大会に出場
周囲には強豪の調布リトルや武蔵府中リトルもあったため、眞美子さんは「頼めば(ほかのリトルに)入れるよ」と声をかけたこともあったが、答えはノーだった。
「本人がリトルは国分寺でやると決めて、本人の意思でずっと残っていました。国分寺が好きだったのか、野球ができれば良かったのか、勝つということに、そこまでこだわりはなかったのかもしれないです。自分が試合に出られるところが良かったのかな。それが結果的には良かったんだと思います。5、6年生の頃には、福生と東大和と連合を組んで出た大会で、強かった八王子リトルを破って優勝できて、関東大会に出られたんです。同じところで頑張ってきて良かったねって思いましたね」
八回1死、左前打を放った山県
心優しい孝行息子
反抗期はなく、3つ上の姉との姉弟げんかも一度もない。眞美子さんが「プロ野球選手には向かないかも」と心配するほど、優しい好青年に育った。
「最近だと、プロに入ってから、マットレスを買ってくれました。私が仕事だったりで腰を痛めちゃったんですけど、それを見ていたんですね。ありがたいです。私は、報われたなと思いました。私としては、野球を続けてくれているだけで十分、うれしいんですけどね」。優しさと意志の強さを兼ね備えた孝行息子に、愛情たっぷりのまなざしを向けていた。