≪道産子F戦士北広島で俺は≫杉浦 来季も活躍し新球場初S狙う
十勝で目覚めたFの守護神「自分の力でチャンスをつかみ取りたい」
北広島市で建設中の日本ハム新球場「エスコンフィールド北海道」が2023年3月に開業する。前例のない挑戦を盛り込んだ「世界がまだ見ぬボールパーク」には、たくさんの希望が詰まっている。新時代の幕開けに立ち会う道産子選手たちは、1年3カ月後の未来をどう描くのかー。取材班がインタビューを行った。第1回は帯広市出身の杉浦稔大投手(29)。
2017年夏にヤクルトからトレードで加入し、18年に新球場建設が正式発表された。興奮と驚きが入り交じるような心境だった。
「ワクワクする、という気持ちが最初でした。次は本当にできるのかなと(笑)。札幌ドームも古くはないですし。北広島の一大イベント、まちづくりなんだとあらためて感じました」
建設地に足を運んだ際は、プレートが設置されたマウンド付近から、本塁方向を見つめた。完成形の映像を確認すると、心ひかれるポイントがふんだんに詰まっていた。
「新しいですよね。センターのガラスのようなデザインは近未来的。フィールドの形も特徴があってアメリカのボールパークみたいな。それが、日本でも味わえるようになる。周辺一帯が一つのテーマパークというイメージ。ここに来るのが楽しみになると思います」
札幌ドームと比較して、野球の質が変わる可能性がある。両翼100㍍は同じだが、外野フェンスは低く、本塁打が出やすくなると予想される。
「狭いらしいですね(笑)。ヒッターズパークといううわさなので。投手は大変ですけど、相手と条件は一緒。その分、味方は点が入りやすくなる。見ている人は面白いんじゃないですか。ホームランも増えて」
先発から抑えに転向した21年は56試合登板で28セーブをマークした。新球場開業元年は、不動の守護神を目指すのか。
「選手として開業のタイミングを迎えられるのはラッキーです。あとは自分の力でチャンスをつかみ取りたい。今の段階ではそう(抑え)です。ただ、僕も来年の成績によってここに立てるかどうか、変わってくる。新球場初セーブとなれば、一番いいですね」
大きな故障や移籍を経験し、クローザーの役回りにたどり着いた。十勝から羽ばたいた剛腕は、地元球団の顔の一人として、九回のマウンドに上がる。
杉浦家の子供たちが新球場を
今回の企画に合わせ、杉浦の愛する子供たちが貴重なスケッチを提供してくれた。画用紙に新球場と、そこでプレーする父の姿が描かれていた。周辺の施設や自然も色彩豊かに表現。4歳の長女と2歳の長男による合作だった。杉浦は「画像(完成イメージ)を見せたら、何も言わずに描き始めました。上手ですかね?」と、優しいパパの顔を見せていた。
帯大谷高時代のの悔しさバネにプロ入りへ
原点は帯広の森野球場だ。帯大谷高2年の夏。十勝支部予選決勝に駒を進めると、先輩投手2人からバトンを受け取る形で登板した。結果的に“抑え”の役割を全うし、同校初の北大会進出を決めた。「最後の夏は全校応援で、特別な感じがありましたね」と懐かしんだ。
物語は続いた。この年の北大会は初戦でコールド負け。杉浦は悔しさをバネに成長し、エースとして3年夏を迎えた。2年連続で支部予選を突破すると、北大会初勝利を挙げて勢いに乗り、準V。甲子園には届かなかったが、プロ入りの扉を開くきっかけになった。
日本ハムに加入後、栗山監督の計らいもあり、帯広の森で凱旋登板した。幸せを感じながらも、勝利投手になれず、悔しさを味わった。「セーブが付くか、分からないですけど、次に投げるときは、帯広のファンに喜んでもらえる展開になれば」。青春の記憶が詰まったマウンドで躍動することが、故郷への恩返しになる。
杉浦 稔大(すぎうら・としひろ) 1992年2月25日生まれ、帯広市出身。小学3年から野球を始め、地元の帯大谷高に進学。大学は国学院大に進んだ。2013年ドラフト会議でヤクルトから1位指名を受けてプロ入り。17年に元「モーニング娘。」でアナウンサーの紺野あさ美さんと結婚。同年7月に日本ハムにトレードで移籍した。21年に先発投手から抑えに転向。右投げ、右打ち。今オフに背番号「57」から「22」に変更されることが発表された。190㌢、90㌔。