ミシャ「師匠であり先生」指導者時代含め28年来の恩師オシム氏悼む
サッカー元日本代表監督のイビチャ・オシムさんが1日に死去したことを受けて、北海道コンサドーレ札幌のミハイロ・ペトロビッチ監督(64)が報道陣に対応した。オーストリアでの指導者時代、シュトルム・グラーツのオシム監督の下でアシスタントコーチを務めるなど、28年の間柄。悲痛な胸の内を明かすとともに、恩師との濃密な時間を振り返った。
人生そのものがサッカー「常に新しいことを考え、時代を切り開いた」
恩師の突然の訃報に、ペトロビッチ監督も心を痛めた。昨年12月にグラーツで会ったのが最後だったという。いつものように、サッカー談議に花を咲かせた。
「彼のような偉大な監督が亡くなられて、悲しい気持ちでいっぱい。オシムさんとは28年の間柄。非常に濃い時間を過ごした。多くのことを彼から学んだ。私にとって師匠であり、先生だ。オシムさんの人生そのものがサッカーであり、サッカーとともに生きた人。彼はサッカー界のイノベーター。常に新しいことを考え、時代を切り開いていった。サッカーに対するアイデアが常にあふれ出てくる。一人の天才だと思う」
グラーツでは監督とアシスタントコーチの間柄。頻繁に杯を交わしながら、サッカーの奥深さを学んだ。
「お酒も好きな方だった。朝方までウイスキーを飲みながらサッカーを語ったものだ。多くのことを私は夜中に教わった。彼はあまり寝ない人で、深夜もずっとサッカーを見ていた。私より年上だが、あまり寝ないのに朝は非常にフレッシュ。すっきりした顔で練習場に来る。私は頭が痛く、顔も足も腫れて、二日酔い。すごく朝がキツかった思い出がある。なぜ寝ないのにあんなに元気なんだろうと、いつも思っていた。彼の下で仕事をさせてもらって、そのスタイルに慣れるのには時間がかかった」
オシムさんは2003年、ジェフユナイテッド市原(現・千葉)の監督に就任。06年のペトロビッチ監督の来日にもポジティブな影響を与えた。
「オシムさんという人はレアルマドリードからオファーが来ても、そこには行かないようなタイプの監督。自分のやりがいや、与えられる影響力を考えて、日本に来て仕事をしたんだと思う。シーズンオフに帰ってきたときには、よく日本のことを話してくれた。文化が素晴らしいこと、人々が勤勉で優しいこと。いろんな日本の素晴らしさを話していた。彼は日本を愛していた」
一番の学びは「次のサッカーのトレンドを見極め、どうチームに落とし込むか」
含蓄のある言葉は「オシム語録」と呼ばれ、日本サッカー界に多大な影響をもたらした。
「多くの指導者が彼のところを尋ねて質問したが、ほとんどの方が何を言っているか分からなかったと思う。非常に複雑な表現の本質を分かる人は、なかなかいないのではないか。みんな彼に分からないように会話を録音して、家で何十回も聞き直して、やっと意味が分かると言っていた。彼からの一番の学びは、次のサッカーがどの方向性に向かうのか。それをどういう視点で見なければいけないか。その中でどう自分のチームを構築し、次のサッカーのトレンドを見極め、どうチームに落とし込んでいくか。感覚でしか分からない部分だった」