旭大高 ラストサマーに3年ぶり10度目の甲子園決めた
▽全国高校野球選手権北北海道大会決勝 旭大高7-1旭東(24日、旭川スタルヒン)
31年ぶりの旭川勢同士の北大会決勝は、旭大高が7―1で旭東を撃破し、3年ぶり10度目の甲子園出場を決めた。準決勝で公式戦初完投した山保亮太左翼手(3年)が、先発したダブルエースの池田翔哉投手(3年)を3安打3打点で援護。支部予選から決勝まで6試合連続打点をただ一人マークした。昨秋、今春と支部予選で敗れた雪辱を果たし、現校名としては最後の夏の甲子園に挑む。
端場監督は決勝戦7戦全勝
旭大高が2季連続支部予選敗退から、この夏10度目の頂点まで上り詰めた。1993年8月の端場雅治監督(53)就任後、決勝では7連勝。「ホッとしています」と安堵の声を漏らした。3安打3打点と打者で活躍した山保は、現校名最後の夏に甲子園出場という最高の結果に「旭大高という名前は一つのブランド。なんとか甲子園で勝って校歌を歌いたい。端場先生に甲子園でなんとか1勝を届けたいという強い気持ちがあります」と、旭大高のラストサマーへ意気込んだ。
31年ぶりに実現した旭川勢対決。球場の開門前から入場券を求める行列が道路まであふれ、開場は約20分早まった。過去に例がないぐらい異例の一戦は、旭大高の先制で幕を開けた。
一回、広川稜太主将(3年)に先制弾が飛び出すと、1死二、三塁で打席を迎えた山保が、1ボールから中前に2点適時打。「第1打席はストライクは全て打つって決めていた。気持ちでいった」と、支部予選から6試合連続で打点をマーク。序盤の3点リードで試合の主導権を握った。
汚名返上を期して背番号1の池田が先発
旭大高の先発は背番号1の池田だ。前日、ダブルエースの山保が公式戦初完投勝利。この日の朝に先発が伝えられると、「山保に負けていられない。背番号1は自分なので、強気でいかないと」と勝負のマウンドに向かった。「3点リードがあったので、投げやすかった」と、曲がり幅の違う2種類のスライダーを駆使して、四回まで旭東打線を無安打に抑える好投をみせた。
池田は17日の準々決勝、白樺戦に先発するも5回5失点で屈辱の途中降板。汚名返上を期してのマウンドだった。大渕路偉捕手(3年)と、「きょうは、変化球を多めに打たせていく」と話し合い、打者を翻弄。中学時代の旭川大雪ボーイズでもバッテリーを組んできたあうんの呼吸で八回までスコアボードに「0」を並べた。
すると、その裏、二回以降沈黙していた打線に山保が再び火を付けた。2死二塁で迎えた第4打席。「3点もあったけど、少しでも池田を楽にして、最終回を守りたい。絶対に1点を取ると思っていました」。強い思いのこもった打球は、二塁手のグラブを弾き、外野へ抜ける適時打。後続も連打で続き、一挙4得点と試合を決定づけた。
九回に1点を失った池田は、完封は逃したものの公式戦初の完投勝利。端場監督も「最後まで集中力を切らさず、成長を感じた。去年の夏にやられている。そういう意味でも良かった」と称賛した。
池田は去年のこの日も北大会で投げていた。準決勝の帯大谷戦で3点差を追い付かれた直後の七回1死一、二塁からマウンドにあがった。しかし、6連打を浴びて4失点。チームを救うことができなかった。それ以降、同校の一塁側ベンチのホワイトボードに試合結果を貼り付けて戒めとし、最後の最後に自分たちの過去にリベンジした。「甲子園ではきょうの自分の投球では抑えられない。きょうの課題を克服して、甲子園へ臨みたい」と、8月6日に開幕する甲子園までの時間を有効利用し、突き詰めていくつもりだ。
新チーム結成以降、北大会準々決勝までは全て継投で勝ち上がってきたが、準決勝、決勝でダブルエースが続けて完投勝利。山保は「ライバル心はあります。先発が自分だったら、自分が完投。池田だったら池田が完投するつもりで毎試合投げてます」。甲子園ロードの終盤で、理想の形を確立した。
山保の父は、元社会人選手
山保は中学2年の春、硬式野球の旭川北稜リトルシニアの遠征で、選抜甲子園を観戦。「夢の舞台」と呼ぶ憧れの地へ、今度は選手として土を踏む。「投げては無失点で、打っては3点以上は打点を挙げたい」と投打で大車輪の活躍を誓った。
今季から日本ハム入りした松浦慶斗投手(19、旭明星中出)とは幼なじみだ。山保の父・貴史さん(46)は社会人野球の山陽国策パルプ旭川(現・日本製紙旭川)でプレーしていた。山保が旭川市で生まれ、幼稚園に上がる前に転勤で宮城県石巻市に住むことになった。そこで松浦の父と同じ職場だったことから、家族ぐるみの付き合いとなった。大阪桐蔭高からプロ入りした身近な存在に山保は「すごいの一言。刺激になります」。自らも将来、投手としてのプロ入りを目指しているという。
住んでいた石巻では2011年3月11日、東日本大震災で被災した。当時、6歳の山保は幼稚園のバスで避難するはずだったが、駆けつけた母・朋子さん(47)と一緒に避難することに。バスはその後、津波にのみ込まれたという。山保の家族は約10日ほど避難所生活を余儀なくされた。その後、貴史さんは石巻に残り、ほかの4人は新潟の知人宅へ一時避難することになった。その際、貴史さんは着の身着のままの兄・健太郎さん(樽商大4年)と山保にグローブを一つずつ持たせてくれたという。新潟で少し過ごした後、4月には小学校の入学と同時に今の旭川へと移り住んだ。
しばらくして偶然にテレビで当時の模様を放送していたのを見て、幼稚園の友達を何人も亡くしたのを知った。
山保は「自分はそういう当たり前にできない経験をしている。コロナ禍でもあるし、そういう人たちを勇気づけられるプレーをしたい」。強烈な記憶を忘れることなく、前を向き、野球ができる環境に感謝の気持ちを感じている。
被災から11年後の夏、山保は自ら決めた使命感を持ちながら灼熱の甲子園へと挑んでいく。