東海大札幌野球部の日下部監督が退任 東海大四高では監督・部長で8度甲子園出場
約46年間の指導者生活に幕
今年6月の全日本大学野球選手権に出場した、札幌学生野球連盟1部の東海大札幌・日下部憲和監督(70)が、12月いっぱいで定年のため退任する。後任には2018年秋からタッグを組んできた、同大OBの藤田翔コーチ(29)が就任。悲願の日本一の夢を託す。
日下部監督が長い間、袖を通してきたタテジマのユニホームを脱ぐ。系列の中学、高校を含め、約46年間の指導者生活。「驚きの野球人生だった。勝ち負けに一喜一憂することもあったけど、なんといっても若いみんなとの出会いが新鮮で、充実した4年半を過ごせました。新監督と共に悲願の日本一を目指して行きましょう」と、あいさつすると部員から惜しみない拍手が送られた。
野球部立て直しの功労者
野球部を立て直した功労者だ。18年6月、未成年部員による飲酒行為が発覚し、全日本大学選手権を辞退。当時の監督が責任を取って辞任。後任として、東海大札幌高時代に監督・部長で甲子園に8度出場の豊富な経験を持つ日下部氏に白羽の矢が立った。同年春に高校を退職していたが「65歳ということで非常に驚きましたが、健全なる青少年の育成をという話を意気に感じて」と、二つ返事で引き受けた。同時に「一人でじゃムリ」と、東海大札幌高コーチだった藤田氏にオファー。「練習内容やメニューは全部任せていた」と、右腕ならぬ「両腕」と呼ぶ藤田コーチと二人三脚で、私生活などグラウンド外も含めて立て直しを図った。
同年の秋季リーグから本格的に指揮を執り、翌19年秋には就任後初のリーグ制覇を達成。今春まで3度のリーグ優勝。「あの時が一番大変だった」と話す20年春の新型コロナでリーグ戦が中止になった際は、密にならないように練習方法に工夫を凝らしながら乗り切った。4年ぶりに出場した全日本選手権では、6月7日の70歳の誕生日にエース左腕・渡部雄大投手(4年)が大会史上7人目のノーヒットノーランを達成し、〝持ってる監督〟として祝ってもらった。
中等部時代の経験が指導の根底
10年以上の中等部監督・部長時代の経験が指導の根幹にある。中等部では、東海大卒業後にオリックス入りした佐竹学(48、現楽天1軍野手総合兼外野守備走塁コーチ)らを指導した。「スクイズをやらなかったら、中学の軟式では点が入らない。その経験が今となっては自分なりにプラスになっているのかな」。高校に戻ってからも、勝負どころではスクイズのサインを出すようになるなど、「豪打の四高」のイメージに新たな風を吹き込んだ。
29歳の若さでバトンを受け取った藤田新監督は、現役時代は捕手一筋。東海大四高では部長と部員の間柄で、大学卒業後はコーチとして日下部監督の下で、野球を学んだ。「(試合中)このタイミングでスクイズかと。自分にはわからない戦術など、采配も含めてまだまだ勉強不足。どうやったら負けないか。日下部先生のように、攻めるところは攻める、引くところは引いて我慢。強弱が上手で、自分もアップデートしていきたい」と、名将の野球観に自らのアクセントを加えていく。
70歳になっても衰え知らず。この日の〝ラストミーティング〟でも湿っぽい様子は一切見られなかった。「これからもグラウンドの土砂崩れの整備とかやることいっぱい。草刈りとか精いっぱいやっていく」とジョークも交え、最後は東海大札幌高時代からの合言葉「よろしく、哀愁~」のかけ声で締めた日下部監督。これからもグラウンドに顔を出し続け、藤田新監督を支え続ける。
■プロフィール
日下部 憲和(くさかべ・のりかず) 1952年6月7日、長崎県出身。現役時代は投手。佐世保南高から神奈川の東海大。卒業後、東海大相模高の故・原貢監督から「北海道の高校で勉強してこい」と、1977年1月に東海大四(現・東海大札幌高)にコーチとして赴任。1986年に監督として挑んだ初めての夏の甲子園では、1回戦で故・伊良部秀輝投手擁する尽誠学園に7-6でサヨナラ勝ち。同校に甲子園初勝利をもたらした。2015年春には部長として春夏通じて同校初の甲子園準優勝を果たすなど監督・部長で8度の甲子園を経験。家族は妻と2女。
藤田 翔(ふじた・しょう) 1993年6月5日、札幌市出身。札幌北シニア―東海大四高―東海大札幌。高校3年は南北海道大会1回戦で函大有斗に敗退。東海大札幌では3年春にベストナインを受賞。15年春に札幌6大学で初優勝に貢献。卒業後、東海大札幌高コーチを経て、18年秋からコーチ就任。家族は妻。