《人ほっとコーナー》元駒苫V戦士の鷲谷修也さん(34)
三井物産の商社マン
「野球は社内の野球大会に出たのが、今年1試合だけ」と屈託なく笑った。甲子園優勝や米球界挑戦など北海道の野球界に多くの風を吹かせた男は、現在、三井物産の商社マンとして新たな戦いに挑んでいる。「社会を変えられる企業だと思っています。世の中にはさまざまな社会課題があり、これからもますます増えていくと思いますが、より良い社会づくりに貢献できるような仕事をしたい」
金属資源本部に所属。目の前のことだけにとらわれず、社会の流れを常に意識している。「既存のアセットを更に強化するというのも重要な仕事ですが、より複雑になっている社会課題に対してグローバルベースでどのようなソリューションを提供できるかを考えなくてはいけない。変化への対応力が求められると思います」
2005年夏の甲子園制覇、06年夏は準V
駒大苫小牧高時代にはレギュラーとして2年夏に全国制覇、翌3年夏にも準優勝を果たすなど、輝かしい経歴を残してきた。当然、大学経由でのプロ入りを夢見ていたが、3年春に一度ベンチを外れたことが大きな転機となった。「1回ベンチを外れたことで考えを改めた。もっと足元を見て、目の前のことをやろうって。そこからはプロでやるところまでは考えないようになった」と振り返る。高校野球を終えた後は筑波大進学を目指して、受験勉強に励んだ。
09年MLBドラフトでナショナルズから14巡目指名
残念ながら不合格の結果に終わったが、翌年夏に米国のデザート短大に進学。米国で再び野球を始めると、2009年には米大リーグ・ナショナルズからMLBドラフト14巡目で指名をされ入団した。翌10年に戦力外となったが、厳しい環境で戦ったことは代えがたい財産となった。
高校、そしてアメリカでの経験が自身の大きな土台となっている。「高校3年間も正直、辛かった。もう毎日辞めたいと思っていたけど、最後に監督が勝たせてくれた。それで救われた部分はかなりあった。その後の人生においてどんなに辛いことがあっても、きっと勝てるはずだというふうに考えられるようになっている」
アメリカでポジティブシンキングに変えられた
アメリカでは、ポジティブシンキングに大きな影響を受けた。「全然マインドセットが違う。『何でそんなにミスを恐れてるんだ』って何度も言われた。現地では、ミスを恐れることに対して厳しく言われる。この経験を通じて、自分の考え方も変えられた」
帰国後は独立リーグ・石川で約1年間プレーし引退。その後は上智大に進学し、外資系の金融会社に就職した。そして22年9月から現在の職場で働いている。周囲からは異色の経歴と言われることも多いが、野球をやっていたときの思考と大きな変化はない。「自分の中でやることはあまり変わっていません。目標を立てて、そこに向かってチームが一丸となって努力をするプロセスや、結果が出なかった時にどうやって修正していくかとか、同じだと感じています」
長女誕生が起点「若い世代の育成に」
16年に第1子となる長女が生まれたことで考え方も一変した。今までは自分を起点に人生を設計してきたが、「若い世代の育成に貢献していきたい。今まで自分自身がいろんなことをやらせてもらった。これをしっかり次の世代に伝えていきたい」と、自らの経験を還元することを念頭に置くようになった。
学生野球資格回復の研修も受け始め、来年1月には修了する予定だ。「いつかは取りたいと思っていた。実際に(経験を)還元できるような状況をつくっておきたい」と、野球についても環境を整えている。「これからもっと大変な時代になっていくと思いますが、そこで生きる人たちが報われるような社会づくりに少しでも貢献できれば」。未来ある若者のために―。新たな〝使命〟に向けて、日々まい進していく。
■プロフィール 鷲谷 修也(わしや・なおや) 1988年10月3日、登別市生まれ。登別西陵中時代は室蘭リトルシニアに所属。駒大苫小牧高では2年夏が甲子園優勝、3年夏は準優勝に輝く。2007年に米国のデザート短大に進学。09年にナショナルズからMLBドラフト14巡目で指名を受け入団。10年に解雇されると、帰国し独立リーグ・石川へ。翌11年に現役引退。その後上智大に進学し、陸上部に所属する。卒業後の14年から外資系の金融会社に勤め、今年9月、総合商社の三井物産に転職した。176センチ、70キロ。右投げ左打ち。家族は妻と1男1女。