《Jリーグ30周年特別企画》本紙評論家・平川弘氏インタビュー 記念すべきJ開幕戦にフル出場
左サイドバックで勝利に貢献 歴史的一戦を述懐
1993年5月15日にスタートした日本のプロサッカーリーグ『Jリーグ』。当初10チームで始まったJリーグは現在、北海道コンサドーレ札幌をはじめ、41都道府県60チームにまで増えるなど、日本サッカーの成長とともに発展してきた。
今回はJリーグ30周年特別企画として、ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ)対横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)の開幕戦で先発フル出場した道新スポーツ評論家の元日本代表DF平川弘さん(58)にインタビュー。この歴史的な一戦について振り返ってもらった。(以下、敬称略)
5万9626人の大観衆 プレミア化された入場チケット
「びっくりしましたよね。お客さんが満杯で」。試合開始直前、会場となった旧国立競技場のピッチに足を踏み入れた瞬間の光景をそう振り返る平川。この日の会場には5万9626人の観客が来場した。「チケットにすごくプレミアがついて。選手には、家族やお世話になった人に渡すためのチケットを用意してくれたんですけど、見たこともない親戚とか友達から電話がかかってきたりして。それくらいチケットを手に入れるのが大変だったんだろうけど、びっくりしましたね」。この逸話が、当時の一戦がどれほどの注目を集めていたのかを物語る。
決して恵まれた環境ではなかったリーグ発足前
平川は順大在学時の1985年に日本代表入りした実績を持ち、大学卒業後の87年にはJSL(日本サッカーリーグ)1部の日産自動車サッカー部(横浜Mの前身)に入部した。当時の日本サッカー界を取り巻く状況について「お客さんを入れるために、リーグ戦のチケットをタダで配ったりとかしてましたね。代表戦を西が丘(東京都北区のサッカー場。収容人員7258人)のような小さいところでやったり」と説明。現在とは異なり、人気は低迷していた。
もちろんハード面も十分ではなく、「今みたいな緑の芝ではなくて、冬になるとはげてしまうような茶色い芝のところでやったりとか、土のグラウンドでリーグ戦をやったことも。だからボールはボコボコ跳ねてしまうし、『ダイレクトでパスをつなげ』と言われても困ります、みたいな時代でしたね」
徐々に熟成されていったサッカー熱 91年のリーグ発足発表が転機
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そんな空気が一変したのが91年。日本初のプロサッカーリーグ『Jリーグ』の発足が発表された。その話を聞いた時について「本当なのかなという気持ちもありましたし、もちろんうれしかったです」と喜ぶ一方で、プロ化することへの現実も目の当たりに。「JSLにはアマチュアの選手とプロ契約の選手がいて、日産の場合も社員の人たちが半分、プロの選手が半分。僕はプロ契約で入ったんですけど、GKの松永(成立)さんとか、金田(喜稔)さんとかは社員だったので、午前中は会社に行って、午後から一緒に練習するような感じだったんですけど、Jリーグになる時に、社員の人たちはプロを選ぶか、会社に残るかという選択を迫られて。そのためにチームを辞めていった人たちもいっぱいいましたね」
Jリーグはリーグ戦の開幕に先立って、92年の9月から11月にかけて第1回ヤマザキナビスコ杯(現:ルヴァン杯)を開催。「宣伝もあって、少しずつお客さんが増えてきたという感じはしましたね」と、開幕に向けての機運と情熱の高まりを徐々に感じるようになっていた。
ミーティングで告げられたスタメン 「プレッシャーもありましたけど、光栄」
そして迎えたJリーグ開幕の日。朝のミーティングで、平川は記念すべき一戦の先発を告げられた。「開幕節の中で、この日はこの試合だけだったんですね(他の4試合は翌日開催)。そこに先発で出られる人は22人だけじゃないですか。そういうところに選ばれたというのは、プレッシャーもかなりありましたけど、光栄に思いました」
当時Jリーグは変動背番号制(選手固有の背番号ではなく、試合ごとに先発の選手に1~11番、控え選手5人に12~16番を割り振っていた)を採用しており、この試合では左サイドバックで先発する平川に『2番』が与えられた。「僕的には背番号にはあまりこだわりはないんですけど、2番ってガチガチのDFみたいなイメージがあって、ちょっと嫌だなと。まあでも試合に出してくれるならもう何でもいいと思って」
この日の対戦相手はV川崎。JSL時代からライバルだった読売クラブを前身とするクラブだ。「僕は読売、V川崎にはたぶん1回しか負けてなくて。今で言うと、ポゼッションはV川崎なんだけど、最後は横浜Mが少ないチャンスをものにして勝ってしまうような」。この一戦を前にした時点で、横浜MはV川崎相手に16戦負けなし(12勝4分)を誇っていた。
運命のホイッスルは19時29分 仲間の先制点〝献上〟に「俺じゃなくて良かった(笑)」
19時29分、Jリーグの始まりを告げるホイッスルが鳴り、日本サッカーの新たな時代が幕を開けた。前半19分、Jリーグが続く限り、永遠に語り継がれるであろうシーンが生まれた。V川崎のFWマイヤーが、Jリーグ第1号ゴールとなる強烈なミドルシュートをゴールネットに突き刺した。横浜Mから見て右サイド側で生まれたゴール。左サイドに陣取っていた平川は「すごいシュートが入っちゃったな」と、その光景を目撃していた。「マイヤーをマークしていたのはDF小泉(淳嗣)なんですけど、彼がかわされて、バンとやられて。まあこれが第1号だから、仕方ないんですけど、毎年この映像が出るので、かわいそうになと思います」と、そのシーンを思い返し、苦笑いを浮かべる。「小泉はこの試合でもすごく良いプレーをしてたんだけど、ちょっとかわされて、ポンって打たれて。俺じゃなくて良かった(笑)」
相性通りきっちり逆転勝利 栄えあるJリーグ初勝利クラブに
1点を先行された横浜Mだったが、相性の良さから「負ける気はしなかったです。まだ時間はあるし、いつもと同じようにやっていけば、追いつけるなという気持ちはありました」。その言葉の通り、横浜Mは後半3分にMFエバートンのゴールで同点に追いつき、同14分にはJリーグ初代得点王となるFWディアスのゴールで逆転した。その後のV川崎の反撃をしのぎきった横浜Mが2-1で勝利し、記念すべきJリーグ初勝利クラブとなった。
「途中交代は嫌だった」 先発11人全員が90分を〝完走〟
終了のホイッスルが鳴った瞬間の思いを「もちろん、うれしいのはうれしかったですけど、ホッとしたというか。足をつらなくて良かったという気持ちがありました。こういう試合で足をつって途中で交代させられたりというのは情けなくて嫌だったので」。この試合に向けてコンディションを合わせたという平川。それは横浜Mの他の選手たちも同様だったのか、この試合では1人も交代せずに、先発メンバー11人が90分を戦い抜いた。だが、その反動は大きく、左サイドでコンビを組んでいたMF水沼貴史は、試合後に体調を崩して倒れたという。そういったエピソードからも、当時の選手たちのこの一戦に懸ける思いが伝わってくる。
紆余曲折の30年 次の30年、さらに先へ「この火を消しちゃいけない」
あれから30年がたち、10チームで始まったJリーグは3部制60チームにまで拡大した。「間違いなく個人のレベルは上がっているし、全体的にもレベルはすごく上がっているので、昔のこの試合とかを見ると、ちょっと恥ずかしくなっちゃう時もあるんですけど、頑張ってんじゃんみたいなところはありますね。すごくやる気があって。やっぱり、この火を消しちゃいけないっていう使命をみんな持っていたので、下手くそなりにやる気を出してやっていました」。人気の低迷、クラブの消滅、コロナ禍など、Jリーグはこの30年で何度も危機に直面したが、それぞれの時代を戦い抜いた選手たちの情熱によって、93年5月15日にともった炎は受け継がれてきた。その炎をともす人々が存在する限り、Jリーグはこれからも続いていくだろう。
■プロフィール 平川 弘(ひらかわ・ひろし)
1965年1月10日生まれ、藤沢市出身。茅ヶ崎高から順大に進学。卒業後は日産自動車サッカー部に入り、Jリーグ創設後は横浜マリノスでプロのキャリアをスタート。もともとはFWだったが、主に左サイドバックで活躍した。その後は横浜フリューゲルス、コンサドーレ札幌と渡り歩き、96年に退団して現役引退。順大時代に日本代表に選出され、85年W杯メキシコ大会アジア予選など国際Aマッチ13試合に出場した。現在はサッカー解説者。北海道新聞、道新スポーツ、月刊コンサドーレなどで執筆中。