《大海の部屋》vol.04 〝原点〟でもある駒大苫小牧高校時代を振り返ります!
日本ハム・伊藤大海投手(25)の連載手記「大海の部屋」vol.4は、道産子右腕の〝原点〟でもある駒大苫小牧高校時代を振り返ります。厳しい環境ながら、毎日が充実していたという3年間。いまだから話せるエピソード、恩師・佐々木孝介監督(36)についても明かしてくれました。
(連載手記「大海の部屋」は、北海道新聞の紙面でも要約版がお読みいただけます。今回は5月30日付の新聞に掲載します)
野球を始めた小学生の頃 現楽天・マー君らの活躍を見て憧れ抱く
高校時代がないと、今の僕はない。すごくいい時間を過ごしたというか、厳しい環境の中でやれたなと思います。考え方だったり、自分の基礎になっていることが多いですね。
駒大苫小牧に行くと、決めていました。野球を始めた小学生の頃、甲子園で(現楽天)田中(将大)さんたちが活躍していました。あのユニホームを着たいというのがありましたね。団体でテキパキ動いているところにも憧れましたし、高校卒業後は大学に行きたかったのもありました。
1年生でいろいろなポジションを経験し 秋から投手に抜擢 背番号はマー君も付けた15
入部当時はBチームでした。試合に出られるようになったのは、3年生が引退して新体制に入ってから。最初はサードや内野を守ったり、いろいろなポジションをやっていました。夏の合宿の時にサードをやっていて、送球がよかった。そこから試合のイニング稼ぎみたいな感じで投げさせてもらって、1年秋からピッチャーに昇格しました。
春のセンバツ甲子園は初戦の創成館戦で3安打完封勝利 それでも自信は無かった
背番号は田中さんも付けた15番。1年生の秋の全道大会は、ポンポン抑えられました。そんなにうまくいくとは思っていなかった。翌春のセンバツ甲子園は初戦の創成館戦で3安打完封勝利。完璧に抑えた感覚もなく、自信もなかった。高校の時は、自信が全然無かったです。
2014年3月22日、春のセンバツ甲子園初戦の創成館戦で3安打完封勝利した伊藤
2年夏が終わった後 右肘の疲労骨折が発覚…
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センバツの後は、やっぱり夏じゃないですか。1個上の先輩たちとの夏が終わった時に、右肘の疲労骨折が発覚しました。でも、落ち込んでいる暇もなく、次は秋の大会と、せかせかとしていました。
3年春の全道決勝は北海と対戦 五回終了時に1-14も 六回から投げて4回無失点
3年春の全道大会は、すごかったです。いまでも覚えてますね。決勝で相手が北海高校でした。2年生ピッチャーが3人くらい投げて、五回終わってスコアは1-14。決勝で恥ずかしいじゃないですか。センターで出ていた僕が六回から投げて、4イニングをゼロで抑えました。絶対、夏にまた対戦することになる。キャプテンをやっていたので、せめて後半戦は勝とうと思いました。
高校3年間は技術よりも人間的な部分をすごく指導してもらった
その夏は南大会準々決勝で、北海と対戦して延長13回を1人で投げきりました。負けましたけど、やり切った気持ちでした。高校3年間はぶっちゃけ、技術がうまくなったり、成長したわけではなかったと思います。人としてどうあるべきか、人間的な部分をすごく指導してもらったのがよかったです。
チーム内では目立つ存在も 入部当初はホームシック
調子をこいていたわけではないですけど、チーム内では目立つ存在だったと思います。怒られることも多かったですが、楽しかったですよ(笑)。「結果を出せば誰も何も言わなくなる」と思ってましたから。
入部したときはホームシックになり、毎日のように母へ連絡してました。そんな寮生活も、慣れたら楽しかった。大体、何かハプニングが起こる。誰かが何かをやらかしたり、平凡な日がないんですよ。部員も100人くらいいたので、絶対誰かが何かをやらかすし、何もない日はなかったですね。
高校時代に書いた野球ノート びっしり書いて怒られたことも卒業後にはいい思い出
野球ノートも毎日、書いたなあ。自分のことや、チームのこと。朝、学校で回収して、練習前に佐々木(孝介)監督が全部チェックするんです。(現西武で1学年下の)若林楽人(写真左)が小さいノートに1ページ書いて怒られないのに、僕はそれより大きいノートに2ページびっしり書いて怒られたこともありました(笑)。当時書いたノートは、卒業後も見返したりしていました。
佐々木監督はグラウンドと仲良くなりたい?! 最後は夏に向けて母校へエール
監督は情熱的な方です。グラウンドに寝袋を持って行って、マウンドで一晩過ごしたりするんです。イレギュラーとかをするので、グラウンドと仲良くなりたいと。今はしていないと思いますが。プロ入り後も母校の試合結果は、チェックしています。夏の大会に向けて、なんとか頑張ってほしいです。